「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」
嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ
「お
「余計な口出しをするな!」
嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。
「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……」
「笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」
「お父さんがその気だから、
「馬鹿っ!貧乏はしても嘉三郎だぞ!そこえらの
「家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。
松代はそう涙声になりながら続けた。
「馬鹿!俊や美津のことなど言うなっ!黙っていろ!」
嘉三郎は又そう怒鳴った。それで二人の間の争いはぷっつりと消えた。重い沈黙がそして
そこへ庭から郵便配達が
二
嘉三郎は手紙を読みながら、
「郵便が来たんじゃねえかね?」
松代がそう言いながらそこへ出て来た。
「美津の畜生め!」
嘉三郎は突然そう怒鳴って、手にしていた手紙を
「何をするんだね?お
「美津の畜生め?俺の顔に泥を塗りやがって、いくらなんでも鼻の先にいべえとあ思わなかった。」
「美津はどこにいるんだね?」
「忠太郎の野郎と一緒に
「忠太郎と一緒にいるのかね?最初からそんなような気がしていたよ。忠太郎ならいいじゃねえかね?」
「馬鹿!」
嘉三郎はまたそう怒鳴った。そして髭を剃るのをやめて、
「松!着物を出せ!」
嘉三郎は
「着物をね?忠太郎と一緒なら、行かねえで、構わねえで置いたらいいじゃねえかね。美津が好きで一緒になっているものなら。」
「投げて置けるか?早く着物を出せ!畜生共め!」
「好きで一緒になって、どうやら暮らしているのなら、構わねえで置けばいいものを……」
松代はそう独り言のように
「暮らしがつかねえでるのだ。忠太は何も仕事がねえのに、美津は美津で、病気をして寝てるってんだ。畜生共め!いっそのこと死んでしめえばいいんだ。俺の顔さ泥を塗りやがって。」
嘉三郎はそう言ってもう一度そこへ坐った。
「そんなに困ってるどこさ、
「なんで金など?」
嘉三郎は追い
「松!
「刀をね?刀なんか何するんだね?お父さんは!」
「畜生どもめ!叩き切ってやる。先祖の面を汚しやがって。」
「何を言うんだね?お父さんは!
「なんでもいいから早く出して来う。
「それはそうかも知んねえが、代々、こんなに
「出して来ねえのか?そんなら自分で出して来るからいいで。
嘉三郎は叫ぶように言って座敷へ
「お父さんてば!」
松代は泣きそうにして嘉三郎の手に
「お父さん!お父さんたら!お父さん!」
併し、嘉三郎は、左手に刀を握りながら、右手でぐっと、松代と嘉津子とを払い除けた。
「男のすることにあ、例えどんなことにもしろ、女どもが口出しをするもんじゃねえ。」
嘉三郎は二人を
「嘉津!お前もよく覚えて置けよ。」
父親の嘉三郎はそう言って出て行った。松代は、
「殺すようなことまでしねえよ。
松代は漸くそれだけを言った。
三
暗くなるまでには四時間あまりもあった。
嘉三郎は、途中、しばらく
「嘉三郎さん!それはいつかの
細長い風呂敷包みに眼をやりながら、米問屋の主人は、
「兼元でがすよ。これだけは手放すめえと思ってたんでがすが、東京へ勉強に行っている
嘉三郎は坐りながら挨拶代わりにそう言った。
「そりゃあ、もちろん、送って上げなくちゃなんねえね。私が売ってもらいますべえよ。いつか私が言った値でいいかね?」
「それがですね。私の気持ちでは、出来るなら、売り切りにしたくねえんでね。先祖から伝わってるもので、どうせ私から伜へ伝わって行くものだし、伜の学資のために売ったとなれば、伜も何も文句はねえと思うんですが、伜が成功でもしたとき、またそれが欲しくなるかも知れねえですからね。それでですね。今は、あの半分だけ借りて置いて、一応は伜と相談してから売り切りにしたいんですがね。」
嘉三郎は
「そりゃあ承知です。半分でなくたって、元金に利子せえ添えて下さりゃあ、私あいつでも返しますよ。それなら相談するまでもありますめえで。」
「それなら伜になど相談しねえんでいいんですがね。併し、沢山借りるのも気になりますから、それじゃあ、百円だけ……」
「百円。百円でいいかね。」
「売り切りじゃねえですよ。」
「承知です。」
頭をさげるようにしながら米問屋の主人は店の方へ立って行った。
「伜を一人、東京へ勉強に出して置くと、金がかかりますでね。私もそのためにあ、先祖から伝わっている刀まで手放さねえなんねえんでね。今はこうして半分だけ借りて行っても、すぐ又はあ、伜から金が
嘉三郎は髭を捻りながらそう米問屋の主人の背後に語りかけた。
「そりゃあ、東京へなど勉強に出して置いたら、随分とかかりましょうなあ。」
そんな風に言いながら、米問屋の主人は幾枚かの
「立派なものだなあ。」
「何ぶんにも
「嘉三郎さん!今日中に送るのなら、早く行かないと、郵便局が閉まりますで。待っていなさるんだべが……」
「それさね。」
嘉三郎はそう言いながらも、悠長に立ち上がって、
四
高清水へ着いたときにはもう薄暗くなっていた。嘉三郎は、以前、商用で何度も来たことがあったが、詳しくは知らなかった。それに、
「
嘉三郎はぽっそりと言った。同時に、二三人の客の眼が、嘉三郎の方へ一斉に集まって来た。嘉三郎は手で髭を隠すようにした。
「あの、高橋治平さんという人の家は、どの辺だね?」
嘉三郎は、そう酒を運んで来た茶屋女に、髭を隠すようにしながら訊いた。
「すぐこの先でがす。三軒、四軒、五軒、六軒目の家でがす。
「その家には、
「離室って、前に、馬車宿をしてたもんだから、そん時の待合所を奥さ引っ込んで、どうにか人が寝泊まり出来るように
「お!一栗の嘉三郎
突然、そう誰かが、薄暗い土間から立ちあがった。
「私かね?私は古川の者ですよ。古川の
嘉三郎はぎょっとしながら、髭を隠して、
「併し、よく似た人だがなあ。」
併し、嘉三郎は、そのまま何も言わずに、残っている
五
ちょうどそこへ、忠太郎がどこかへ出るのらしく、立て付けの悪い板戸を開けたので、薄い光が、
「忠太郎!」
嘉三郎はそう声をかけた。
「あれ!お
忠太郎は
「美津の病気はどういう具合だ?」
嘉三郎はそう言いながら中へ這入った。
「お父さん!」
美津子は寝床の上へ起き上がって
「寝てろ!お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ?起きてでいいのか?」
「
横から忠太郎がそう言った。
「今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。
「お父さん!」
美津子はそう
「美津!俺が来たのに泣いたりするなあ。泣くなら帰るで。」
併し、嘉三郎の頬にも、涙が伝わって来ていた。
「そこに栗の木があるな?
嘉三郎はそう言って眼のあたりを拭った。
「お父さん!今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして……」
「何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか?こんなどこで俺の恥まで
「それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も
「馬鹿なっ!稼がせるために忠太郎を美津の
「それより、お父さんさ、酒でも買って来たら?」
美津子は漸く顔を上げて言った。
「酒か?酒なら呑んで来たばかりだ。酒より話でもする方がいいで。」
嘉三郎はそう言ってとめたが、忠太郎は黙って、そそくさと出て行った。
「お父さん?本当に悪いことして。」
美津子は又そう言って布団に顔を当てた。
「何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに
「ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも……」
「旅費を
父親の嘉三郎はそう言って
「美津!お前は少し痩せたでねえか?」
嘉三郎は、しばらくしてから娘の手を握った。
六
雨の中を、嘉三郎は、朝飯前に自分の家へ帰って、炉端へ坐ったまま黙っていた。
「美津はどうしていたかね?」
松代は不安そうにして聞いた。
「何も心配しねえでいいだ。」
嘉三郎はそう言ったきりで、また
そこへ、近所の百姓女が来て、
「美津ちゃんは、近頃、どこかへ行ってますか?」
百姓女はそう突然に聞いた。
「東京へ勉強にやりましたよ。今時は、女でも、学問がないと馬鹿にされますでなあ。
嘉三郎はそう髭を稔りながら言った。そのとき、ふと嘉三郎は、昨日、
「馬鹿に栗の花の匂いがするなあ。松や!今年の秋は、栗を沢山採って、東京さ勉強に行っている奴等に送ってやれよ。」
嘉三郎はそう言いながら、
――昭和七年(一九三二年)『若草』八月号――