短い作品で一つの問題を提出するといふやうなことは難しいことだ。況んや僕のやうな素人には小説のこつがわからないから、事件や主人公の性格やを一つの問題に向つてピントを合はせることができない、だからあの小説の場合では、普通の道徳からいへば、あゝいふ事情にある男がそも/\最初女に恋をしたのが正しくないだらうし、殊にあれくらゐのことで死んでしまつたりするのは猶更らよくないだらう。女の方は僕としてはあゝするより外はなかつたと思ふ。そして、あゝしたのは間違つてゐたとは思はぬ。結果が悪かつたからといつて、それが彼女の責任だとはいへない。それに僕は人間の行為を絶対的に善いとか悪いとか、正しかつたとか、間違つてゐたとか簡単にきめてしまふ輿論といふのを常に軽蔑する。人間といふものは大抵の場合、自己に対しては最良の批判者たり得る。かりにあの小説の主人公のやうな男女が実在してゐたとしたら、あゝした経路をとるのはいくら不自然なやうに見えても、矢張り自然で、どちらも、彼等自身としてはさうするより外に道はなかつたらうと作者として思ふ。でなければ作者はあゝは書かなかつただらう。作者としての回答は作品そのものに見出されるので、それ以外に附言する必要はない位である。従つて僕が柳子だつたら矢張りあのとほりにして、あの通りにあとで飛んでもないことをしたと後悔するであらう、だがそれで正しいのだ。人間の行為といふものは汽車のやうにきまつた善悪のレールの上ばかり走れるものでない。