「左と右」
左和右
当地のコミュニティ紙「モントリオール・ブレテン」1月号に東京国立博物館の望月幹夫氏の「日本古代展を終えて」という記事が掲載されている。「埴輪で見ると、古墳時代は(着物を)左前に着るのが普通だったようです」と書いておられるが、もし横に埴輪の写真も添えられていたら、「あれ?」と思われる人がいたに違いない。なぜなら、「左前」とは、着ている本人から見て、「右の襟(えり)が前に来る(=上になる)」ことを言うからである。つまり、「左前」では左が前にならないのだ。
本地的地方报纸《蒙特利尔公报》1月刊上刊载了东京国立博物馆望月干夫先生写的一篇文章,题为《日本古代展落幕》。其中有这样一句话,从陶俑可见,在古坟时期(穿和服)仿佛左衽较为普遍,如果在文章旁附上陶俑的照片,可能有人会觉得疑惑。这是因为,所谓的左衽是指从穿和服的本人来看,右襟在前(=置于上方)。也就是说,左衽并非指左襟在前。
この謎を解くヒントは、「着ている本人から見て」と書いたところにある。「右前」や「左前」は、着ている本人から見てはいけない。着ている人を役者と見て、観客の方から見るのである。写真の説明でよく使われる「向かって左」であれば、「左前」は、ちゃんと左の襟が前になる。なお、現代でも死んだ人に着せる経帷子は「左前」だ。商売がかたむくことを「会社が左前になった」と言うのは、望月氏の指摘しておられる通り、その不吉なイメージの連想だろう。この視線と似ているのが日本の舞台用語で、上手(かみて)が右、下手(しもて)が左なのは、これまた客席から見たものである。面白いことに、ヨーロッパでは視線が逆になる。
解开这个谜底的关键在于,穿着衣服的本人来看这句话。右衽或是左衽,都不能从本人角度来看。而是要将穿衣者看做是演员,从观众角度去看。如果以照片说明中常见的前方左边角度出发,左前确实是左襟在前。另外在现代,给逝者穿的寿衣为左衽。人们把生意萧条称作会社が左前になった(公司经营走下坡路),这也正如望月先生所指出的那样,是源于该词给人的不详之感吧。和这种视角较为相似的还有日本舞台用语,上手为右侧,下手则为左侧,这也是站在观众席角度看的。有趣的是,在欧洲视角是相反的。
今度は「ひだり」の語源を考えてみよう。左は、太陽の出る方向、つまり「日出り(ひだり)」というのがほぼ定説になっている。これに対して「みぎ」の方は、諸説あって、どれも決定版とはいえない。右利きが圧倒的に多いので「にぎり(握り)」から来たという説も面白いが、それなら何故「ひだり」に残った「り」が、「みぎ」では消えたのかという疑問が残る。
接下来我想谈谈ひだり(左)这个词的语源。左,是太阳升起的方向,即为日出り(ひだり),这种说法基本上已成定论。而与其相对的みぎ(右)的语源,则版本较多,且没有一个固定的说法。有种说法倒是比较有意思,说因为右撇子人数占绝对优势,所以从にぎり(握)这个词发展而来,不过其中也产生了个疑问——既然如此,那为什么ひだり(左)中遗留了り而みぎ(右)中却没有了呢?
さて、左が「日の出る方角」であるとするなら、「左」イコール「東」ということになる。そう言えば、「ひがし」の語源は明らかに「日+向か+し」が(ひむかし→ひんがし→ひがし)だから、語源すら瓜二つだ。漢字の「東」もまた、「木」の向こうに「日」が昇る会意文字であることはよく知られている。因みに「ひがし」の「し」は「風向き」の意味から転じて「方向」の意味で、「にし(西)」にも使われている。こちらは「去・往(い)に+し」で、太陽の去る(=日没の)方向の意味。沖縄からさらに南に行くと「西表島」という島があるが、この読みが「にしおもて」でなく「いりおもて」なのも、西がここでも日の沈む方向として意識されたせいだろう。「いり」は「入り」に違いないから。
如果左边是日出方向的话,左即为东。这么说来,ひがし(东)这个词的语源显然是日+向か+し(ひむかし→ひんがし→ひがし)这样变化而来,它和ひだり(左)的语源特别相像。大家都明白,汉字東也是个会意文字,即在树的那边太阳升起。顺便提下,ひがし(东)中的し原指风向,后变为方向之意,因此也被人们用于にし(西)一词中,原形为去・往(い)に+し,指太阳消失(=日落)的方向。在冲绳的更南边有个岛,名为西表岛,岛名读做いりおもて而不是にしおもて,西在这里也是用来强调日落方向的吧。因为いり必然指的是入り(日落)。
話を戻そう。「左」イコール「東」となるには、視線が南を向いていることが条件になる。このことと関連があると思われるのは京都御所の「左近の桜」、「右近の橘」で、御所の内側から、つまり北を背に「天子南面」の視線で見ると右近は右、左近は左にちゃんと来る。また、京都の左京区と右京区も、地図で見ると左右反対になっていることも参考になるだろう。こちらも、御所の方から南を見ると左右正しくなる。
回到原来的话题。左即为东是有条件的,即视野朝南。这让人联想到了京都御所的左近樱、右近橘,从御所内侧、即背朝北以天子南面的视野去看的话,就会发现右近卫府正好在右边、左近卫府正好在左边。另外还有个或许可以成为参考,京都的左京区和右京区若从地图上看也是左右对换了的,这同样要站在御所方向面朝南去看才行。
言うまでもなく「天子南面」は中国の習わしで、皇帝は南に面して座した。また皇居の正面は南(の南大門)である。南面すれば当然「北」は後ろに来るので、「背」という漢字にも「北」が使われるし、「北」そのものが、背中合わせに坐った二人の会意文字である。摂政・関白の正妻を「北の政所(まんどころ)」と呼んだのも、正門から一番奥に政所があったからで、これはつまり「奥様」というのと同じことである。
不用说大家都明白,天子南面是中国的传统,皇帝面朝南而坐。另外,皇宫正面为南面(的南大门)。面朝南时北自然是在后面,所以背这个汉字中也用到了北,而北这个字本身便是相靠而坐的两人的会意文字。人们把摄政•关白(日本官职)的正妻称为北政所也正是因为她们住在正门往进走最里面的政所中,这和奥様(夫人)是一个道理。
中世の軍記物語に「弓手(ゆんで)・馬手(めて)」という言葉が出て来る。意味はこの順で「左の方・右の方」である。(例:保元物語「弓手馬手より馳せ寄って…」)。漢字で明らかなように、左を「弓を持つ手(の方向)」、右を「馬の手綱を持つ手(の方向)」と見たところから来た言葉だ。
中世纪的军记物语中有这样一对词,弓手·馬手,意思分别是左方·右方。(例:保元物语左右开攻策马靠近……)。正如字面所示,左为持弓之手(的方向),右为持马缰之手(的方向)。
時代を下って、江戸時代には武士が道を行く時に必ず左側を歩いた。これは、刀のせいである。左腰に差した刀がすぐ抜けるには右手が自由に使えなくてはくならない。それから武士がお互いにすれ違う時に刀をぶつけない様にした。
时期变迁,在江户时期,武士们在路上必靠左侧行走。理由在于他们的佩刀。要想赶紧拔出插在左腰处的刀就得保证右手能自由活动。由此一来武士们擦肩而过时也不会撞上了。