六七年前、インフレーションがはじまって、それはまだ軍需インフレと呼ばれていた頃、書籍とインフレーションの関係で、新しい插話が生れた。その中に、インフレーションで急に金まわりのよくなった若い職工さんが、紀伊国屋書店にあらわれて、百円札を出し、これだけ本をくれ、といったという話がひろくつたえられた。出版インフレと云われて、今日になれば価値も乏しい文学書も溢れていたときのことである。
みかんかりんごを買うように、これだけ本をくれと百円札を出したにしろ、その若い職工さんは、ともかく本が何か心のたしになると思って買う気になったのだろう。ちょうど、みかんは主食にならないけれど、みかんのヴィタミンは、身体にいいと知っていたように。ところが、こんにち谷崎、荷風のものなら「闇屋が買うから」といわれていることには、おのずからちがった意味がある。
作家が自分の本をいつ、誰に、何処で読まれるかということについては、これまできわめて受動的な立場にいた。読みたい人は誰でも読み、そしてまた誰でも読むということがその作家の社会的な商売的な存在のひろさをはかることでもあった。だから谷崎、荷風が闇屋に読まれるということもその作家にとやかくいうべきでない社会現象であるともいえる。なぜなら、闇屋は最近の日本の破滅的な生産と経済と官僚主義の間から生えたきのこであり、谷崎、荷風はそんなきのこの生える前からそこに立っていた資本主義社会の発生物であったのだから。
しかし作家の生きてゆく社会的感覚と作品の生きてゆき方――作品の普及される方向、出版されてゆく条件などについて、単に受動的でいられなくなっている作家、著述家があらわれてきている。
一九四五年八月、戦争が終って、日本に民主的方向が示された。言論の自由・出版の自由がとりもどされた。それから今日まで、十数ヵ月経つ間に、民衆のとりもどされたはずであった出版の自由や言論の自由というものは、どういう現実で推移して来ただろうか。これについては、真面目な反省がいる。
形式の上で、自由にされた出版、自由にされた言論が、現実に自由に存在するためには資材がいる。出版の自由は、自由につかえる紙が土台である。紙が闇で、それは刻々に値上りし、紙のタヌキ御殿が出現して新聞を賑わす有様は、出版の自由がどんなに歪み、単に営利化されているかという事実を表明している。一頁あたりの闇紙が高価ならば、その一頁からうんと儲けなければならないのが、資本主義の出版企業である。卑猥な出版物が全く闇紙をつかって、しかも厖大な利潤を得ているのに、教科書がないこと、参考書がないことを訴えている学生は、国民学校から大学から労働者学校に充ち満ちている。ごく详细的な一例を仮定すれば、父親の小説は一冊千円でうれているのに、その子の教科書は払底している、という矛盾があらわれているのである。
営利出版が、出版の自由を確保しない上に健全な意味で言論の自由さえ奪ってゆく。なぜなら、社会に生活する健全な精神の人間生活は、決して情痴の口説で終っているのではないから。荷風、谷崎の世界で、この社会は包み切れるものではないから。新しい日本の人民の発言は、新しく生れた出版社やそこからの刊行物で活溌に展開されようとしていた。ところが、紙の問題から、つまりは闇紙の買える金もちの出版社、戦争中には、幾千万の人々の血と婦人の涙の上に利益をつみかさねたような出版社が、今日の紙を買い、再び大衆をしぼっている。金もちは金もちの共通な心もちに結ばれている。勤労人民に人民の心が共通なように。今日のインフレーションを、「幼児の心になって天国に入れ」と平気で放送する石橋湛山大蔵大臣というものを頂いている金もちたちの心には、人民の精神の要求は決して通じないであろう。それはその人々に、自覚されることのない人間性の一つの発露なのである。戦争に協力した営利出版企業が今日また再び、独占資本的な活動をはじめて民衆の精神的な要求を、低い、安易な、妥協的な方向に導くとしたら、日本の明日はどういうことになるだろう。
資本主義経営の矛盾が、生産にしたがう勤労人民の幸福を犠牲としているということは、もう殆どすべての勤労者が理解している。組合に組織された勤労者は四百万人になった。これらの人々は、一歩ずつより合理的な生産の関係に入ろうとし、憲法が明記している基本的人権を実現させようと努力している。経済的な要求の必然は、今日生きて働いているすべての人にわかっている。けれども、人間は食だけで生きているものだろうか。或は投げ与えられたものを食うことで満足してゆくほど動物めいたものだろうか。そうでないと思う。勤労大衆は、自分の社会的勤労の価値を自覚すればするほど、自分の人間のねうちに目ざめ、俺の意見に自信をもち、俺たちの組織に確信を得、そして、勤労階級の発展のための希望と実行を、自分の一生の発展と希望との同義語として心に抱いて来る。
まともな勤労人民の、文化的な欲求というものは、音楽でみれば職場のハーモニカ合奏団、コーラス団から、ショスタコヴィッチの第九シムフォニーをきいて見たいと思うところまで拡大している。初歩的な機械についての案内書から、資本主義の解説から、トルストイやゴーリキイまでが読みたいと思われ、読書は生活の必要と感じられている。組合は、文化部の意味を理解しはじめて来ている。けれども、このような悪質な闇紙問題にからむ悪出版について、出版・印刷の労働組合とその組合員はどう考えているだろうか。
印刷行程の困難な事情に応じて、出版・印刷関係の勤労者が、最低生活を守るために闘った。物価の高騰と歩調を合せないまでも、いく分ましの賃銀の条件になり、婦人は生理休暇ももてるようになった。
けれども、本当に自主的な自覚のある勤労者として、今の日本の、民主化とは皮肉悪辣に逆行している出版事情を観察した場合、働くものの鋭い見識と実力の発揮は、単純に、経営者対被雇傭者の経済問題だけに局限されているはずのものなのだろうか。自分の指先で植える一つ一つの字が、自分たちの階級の善意を愚弄するような本質のものであるのに、その作業から経営者が厖大な利潤を得るからそれを合理的分配に置こうとするだけであるなら、勤労者の人間としての要求は、一面的だと思われる。直接の関係がそこにあらわれないかのようではあるが、そういう闇紙の存在、悪出版の横行そのものを可能にしている社会の仕組みこそ、勤労人民をこのひどいやりくり生活においているのであるし、植えられてゆく一字一字の内容が、いわばこの死活問題が、どういう方向で処理されてゆくかということにかかわっているのである。一行、頽廃の文字がより多く植えられれば、勤労人民生活の向上に関する一行は現実に減ってゆくのである。
それぞれの生産部門の特别性というものは、意味ふかい自省を求めていると思う。出版・印刷の全組合員が、悪出版に抵挡して、組織ある発言をするとき、闇出版屋の横暴が何の痛痒も感じないということはあり得ない。出版・印刷関係の勤労者は、もっともっと自分の仕事の社会性を知ってほしいと思う。目さきのケースを越して、そこにつながる自分たちの人生のねうちとして、活字を見てほしいと思う。その一字一字が、自分の声のかたまった形として感じてほしいと思う。
これまで、文筆家・作家たちは、自分たちの文筆活動について、稚い幻想をもって来た。文筆活動は、肉体の勤労よりも人間的に高級ででもあるかのように思いこまされて来ている。しかし、それが非現実であるのは、夏目漱石の遺族がどんなに印税をとったにしろ、岩波書店ほど金もちにならなかった一事をみてもわかる。現代の殆ど全部の文筆家・作家は出版企業のために、その利潤を得るために働いている。原稿料・印税で賃銀をしはらわれ、「先生」という呼びかたで、一種の立場にくぎづけされている。著作家組合が出来たとき、文筆家は、自分のところで、自分の道具で、自分の時間で執筆するのだから、外の勤労と条件がちがうと考えた人があった。税務署も、文筆家は、ほかの勤労とちがうとして、開業医、弁護士なみの所得税徴収の基準をたてている。私たちは、作家という社会的な仕事を、現実に自分の企業として行っていない。労作の努力、そのかげにかくされた永い歳月の辛苦、それらは一枚いくらという原稿料で支払われない人生の刻々の蓄積である。それをいわないで、勤労の標準価値としてみても、原稿料は、出版企業のより巨大な利潤に比べて比較にならない小部分をしめている。商品としてうごかされる一万部の本の一割二分、五分、が印税である。
そう見て来れば、文筆活動が、社会の文化生産のための勤労として、やはり、資本の本質にしたがった関係におかれていることが明白である。ただ、近頃一部の作家の間に风行しているように、小金をためて来た作家たちが、背後により大きい資本と結合して、出版企業体を組織し、株主や理事になって、利潤の分配に直接関係しはじめている人々は、作家といっても、それは例外である。職人が小金をためて、親方となり、小経営をもちはじめたような関係にある。
文筆家が、自分たちのおかれている現実の社会関係を理解しはじめていることと、出版・印刷の労働組合が、人民大衆の社会的発言の形態としての出版の活動の真の意味を把握する歩調とがある程度そろったとき、日本の文化は、出版の刷新の可能から特别に大きい進歩をとげるだろうと期待される。
出版・印刷の勤労者がただ煽ってケースの前で精力をしぼりつくしているとき、文筆家が、個人的に才能にたよったり、风行におもねったり、闇につられて文化性を喪失したりしている間は、物質と精神の暗黒は追い払えないと思う。
文筆家の覚醒の一翼として、翻訳家の現実問題がおこって来ている。従来、日本では翻訳家の存在が比較的有利であった。特に、それぞれの外国語で権威といわれる立場にいて後輩をもち、学閥をもっていた人々にとって。日本の社会は封鎖されていて、外国語は特権階級の教養であった。したがって、外国文学または外国語で働く人は作家とはまたちがう一種の特別なものとしての自覚をもっていた。
この節、翻訳権の問題があって、すべてのジャーナリストが困却しているとおり、すべての翻訳家・語学者は活動を閉鎖された形である。生活問題はこれらの人々を真剣にしている。そして、これまで文化の上に軍国主義的鎖国をうけて来た日本の精神を開放し、より人類的に、より民主的に豊にするために、この問題が最も聰明に解決されることを求めている。資本主義出版企業の矛盾の国際性について理解しはじめている。
外国の教養、言葉の知識、したがっていくらか自分たちを日本人の平均より文化的に高いように思っていた人々の罪のない夢は、現実にうち当って砕ける。
未来の社会に向って文化生産者であるという明白な自覚こそが文学でいえば作家に、ジャーナリズムに屈従した存在でない責任感と信念を与える。ただ、字を殖えている職工ではないのだ、という自覚が、市民権の一つの当然な発言として、労働者に闇紙と悪出版への批判を発言させるのは、ごく当然のことであろうと思う。最も進歩した良質の文化人は、今日、文化生産者としての社会的責任を自覚しはじめている。産別のうちで文化面に密接な勤労者が、自分たちの職場の機能を、最も自主的文化財として自覚することこそ自然な発展である。〔一九四七年三月〕