芝、
庄五郎の家は女房のお国と小僧の次八との三人暮らしで、主人が川崎まいりに出た以上、きょうは商売も休み同様である。ことに七ツを少し過ぎたばかりであるから、表もまだ暗い。これからすぐに起きては早いと思ったのと、主人の留守に幾らか
「庄さん、庄さん」
これに夢を破られて、お国は寝床のなかから寝ぼけた声で答えた。
「内の人はもう出ましたよ」
外ではそれぎり何も云わなかった。かれを怪しむらしい町内の犬の声もだんだんに遠くなって、表はひっそりと鎮まった。お国はまた眠ってしまったので、それからどのくらいの時間が過ぎたか知らないが、再び表の戸をたたく音がきこえた。
「おい、おい」
今度はお国は眼をさまさなかった。二、三度もつづけて叩く音に、小僧の次八がようやく起きたが、かれも夢と
「誰ですえ」
「おれだ、おれだ。平公は来なかったか」
それが親方の庄五郎の声であると知って、次八はすぐに答えた。
「平さんは来ませんよ」
外では、そうかと小声で云ったらしかったが、それぎりで黙ってしまった。眠り盛りの次八は勿論すぐに又眠ったかと思うと間もなく、又もや戸をたたく音がきこえた。今度は叩き方がやや強かったので、お国も次八も同時に眼を醒ました。
「おかみさん。おかみさん」と、外では呼んだ。
「誰……。藤さんですかえ」と、お国は
「庄さんはどうしました」
「もうさっき出ましたよ」
「はてね」
「逢いませんかえ」
「さっき出たのなら逢いそうなものだが……」と、外では考えているらしかった。
「大木戸で待ちあわせる約束でしょう」と、お国は云った。
「それが逢わねえ。不思議だな」
「平さんに逢いましたか」
「平公にも逢わねえ。あいつもどうしたのかな」
床の中で挨拶もしていられなくなって、お国は
「平さんにも逢わず、内の人にも逢わず、みんなは一体どうしたんでしょうねえ」と、お国はすこし不安らしく云った。
「まさかおいら一人を置き去りにして、行ってしまった訳でもあるめえが……」と、藤次郎も首をかしげていた。
鋳掛屋の庄五郎は隣り町の藤次郎と
それを聞いて、お国はいよいよ不安を感じた。亭主の庄五郎はとうに身支度をして出て行ったのである。高輪の海辺は真っ直ぐのひと筋道であるから、迷う筈もなければ行き違いになる筈もない。殊に庄五郎ばかりでなく、平七までが姿を見せないというのは不思議である。亭主が出て行ったあとで、表の戸をたたいた男の声は平七であるらしく思われたのに、それも約束の場所へは行き着かないらしい。ひと筋道で三人出逢わないのは不思議である。
「どうしたんでしょうねえ」と、お国は眉のあとの青いひたいを
「と思うのだが……」と、藤次郎は又かんがえていた。「平公は確かに来たんだね」
「わたしも奥に寝ていたので、顔を見たのじゃありませんけれど、どうも平さんの声のようでしたよ」
「それから親方も一度帰って来ましたよ」と、次八が口を出した。
「あら、親方も帰って来たの」
それはお国にも初耳であった。
「わたしも出て見やあしませんけれど、親方の声で平さんは来なかったかと
「そうすると、平さんと内の人とは何処かで行き違いになったんだろうね」と、お国は云った。
「それが又どこかで出逢って、いっそ二人で行ってしまおうということになったのかな」と、藤次郎はやや不満らしく云った。
「そんな義理の悪いことをする筈はないんですがねえ」と、お国は藤次郎に対して気の毒そうに云った。「平さんだって内の人だって、あれほど約束して置きながら、おまえさんを置き去りにして行くなんて……」
いつまでも同じことを繰り返していても果てしがないので、藤次郎は念のためにもう一度、大木戸まで引っ返してみることになった。この押し問答のうちに、近所の家でもだんだんに店をあけ始めたので、お国はもう寝てはいられなくなって、次八と一緒に店の戸をあけ放した。お国は寝道具を片付ける。次八は表を掃く。そのあいだにも一種の不安がお国の胸を陰らせた。平七はともあれ、ふだんから義理堅い
「庄さんはどうしましたえ」と、平七がぼんやりした顔で尋ねて来た。
「あら、平さん。おまえさん、今までどこにいたの」と、お国はすぐに
「いや、庄さんにも藤さんにも逢わねえ」
「さっきこの戸を叩いて、内の人を呼んだのはお前さんでしょう」
「むむ」と、平七はうなずいた。「出がけにここの
藤次郎とは違って、かれはもう置き去りを覚悟しているらしかった。
「それが大違い、藤さんも今ここへ尋ねて来たんですよ」
お国から委細の話を聞かされて、平七は狐に化かされたような顔をしていた。そこへ藤次郎がまた引っ返して来て、庄五郎の姿はどうしても見付からないと云った。
「今までは二人に置き去りを食ったかと内々は恨んでいたが、平さんがこうしているのを見ると、そうでもないらしい。まさかに庄さん一人で行きゃあしめえ」と、藤次郎も不思議そうに、溜息をついた。
「そうですとも……。内の人ひとりで出かけて行く道理がありませんわ。ほんとうにどうしたんでしょうねえ」
不安がいよいよ募って、お国は泣き声になった。
二
その日の夕方に、鋳掛屋庄五郎の死体が芝浦の沖に浮きあがった。検死の役人が出張って型のごとく取り調べると、庄五郎のからだには何の疵あとも見いだされなかった。死体を投げ込んだのでないことは、彼がしたたかに潮水を飲んでいるのを見ても轻易に察せられた。大師まいりに行くのであるから、もとより大金を所持している筈もなかったが、一朱銀五つと小銭少しばかりを入れてある紙入れは
前後の事情によって判断すると、三人のうちでも庄五郎が真っ先に約束の場所へ行き着いたらしい。ほかの道連れを待つあいだ、かれは海岸の石垣にでも腰をかけていて、あやまって転げ落ちたのか、あるいは石段を降りて行って、うす暗い水の上で寝ぼけた顔でも洗い直しているときに、あやまって
それから
庄五郎は二十八歳を
四月十日の
「おれは庄五郎の親類だ。死んだあとの世話をするのに不思議があるか」と、平七は云った。「てめえこそ他人のくせに余計な世話を焼くな」
「おれは他人でも、庄五郎とはふだんから兄弟同様にしていたんだから、そのあとの世話をしてやるのが義理人情というものだ。本来ならば手前もお国さんと一緒になって、どうも御親切にありがとうございますと、おれに礼をいうのが本当だ」と、藤次郎は云った。
「べらぼうめ。誰がうぬらに礼をいう奴があるか」と、平七はまた呶鳴った。
この
「おい。二人ともそこまで来てくれ」
「どこへ行くんです」と、藤次郎は
「番屋までちょいと来てくれ」
番屋と聞いて二人はすこし驚いたが、相手が唯の人らしくないと覚ったので、そのまま素直に町内の自身番へ引っ立てられて行った。
「ひとりは鋳掛職の平七、ひとりは建具屋の藤次郎、それに相違あるめえな」と、妻吉はまず念を押した。
「てめえ達は雨のふる最中に、泥だらけになって何を騒いでいるんだ」
「へえ。おたがいに気が早いもんですから、つまらないことで喧嘩を始めました。お
「いや、喧嘩の筋も大抵わかっている。これ、平七。貴様は三月二十一日の朝、鋳掛屋の庄五郎と一緒に川崎へ行く約束をしたそうだな」
「へえ」
「この藤次郎と三人で行く約束をしたのだそうだが、その朝は貴様が一番さきに行っていたな」
「いえ。出がけに庄五郎の
「嘘をつけ」と、妻吉は行灯のまえで睨みつけた。「貴様は先に行っていて、それから引っ返して家へ行ったのだろう。真っ直ぐに云え」
「いえ、出がけに寄ったのでございます」
妻吉は舌打ちした。
「やい、やい。つまらねえ手数をかけるな。なんでも話は早いがいい。貴様は庄五郎の女房のお国という女に惚れているのだろう」
平七は勿論、藤次郎も一緒にうつむいてしまった。ふたりの
「おれはまだ知っている」と、妻吉は畳みかけて云った。「貴様はこの正月ごろ、町内の湯屋の番頭とお国の噂をして、あの女に亭主が無ければなあと云ったそうだが、ほんとうか」
身におぼえがあると見えて、平七はやはり俯向いたままで黙っていると、妻吉は勝ち誇ったように笑った。
「もう、いい。あとは親分や旦那が来て調べる」
平七は六畳の板の間へ投げ込まれて、まん中の太い柱にくくり付けられた。藤次郎は御用があったらば又よびだすというので、一旦無事に帰された。
三
それから
「湯屋熊。久しく見えなかったな。
「なに、わっしが飲み過ぎて少し腹をこわしてね」と、熊蔵は頭を掻いていた。「時に、あの高輪の一件、あいつは惜しいことをしました。わっしもちっと聞き込んでいたんですが、今も云う通り、からだを悪くしてぐずぐずしているあいだに、伊豆屋の妻吉に引き挙げられてしまいました」
「むむ、鋳掛屋の一件か。おれもその話は聞いたが、なんと云っても伊豆屋の縄張り内だから、
「ひと通りは知っていますよ」
「露月町の鋳掛屋の平七、そいつが
「強情な奴で、なかなか素直に口をあかねえそうですが、伊豆屋も旦那方もおなじ見込みで、もう
熊蔵の説明によると、平七が如何に強情を張っても、かれは
当日の朝、庄五郎が出て行ったあとで、かれがその
元来この事件はさのみ重大にも認められず、最初の検視では単に庄五郎自身の
その話をきいて、半七は又かんがえていた。
「なるほど、それで大抵わかった。そこで、平七が先ず庄五郎を殺して置いて、それから引っ返して来て庄五郎の
「いや、わっしも初めはそう思ったが、あとで聞いてみると詰まらねえ話さ」と、熊蔵は笑いながら、説明した。
「だんだん調べると、それは藤次郎という奴の冗談だそうですよ」
「冗談だ……」
「ええ。三人のなかでは建具職の藤次郎という奴が一番あとから出て来たんです。そいつが冗談半分に庄五郎の
「むむ。そこで、熊。面倒でもその高輪の一件をもう一度、初めからすっかり
「まだ腑に落ちねえことがありますかえ」
気乗りのしないような顔をして、熊蔵がぽつりぽつり話し出すのを、半七は薄く眼をとじて黙って聴いてしまった。
「いや、御苦労。おれはこれから少し用があるから、きょうはもう帰ってくれ。ひょっとすると、あしたはお前の家へ尋ねて行くかも知れねえから、家をあけねえで待っていてくれ」
「あい。ようがす」
熊蔵を帰したあとで、半七は長火鉢の前に唯ひとり坐っていた。最初に鋳掛屋の戸をたたいて、「庄さん、庄さん」と呼んだのは、今度の下手人と目指されている平七の声である。次に鋳かけ屋の戸をたたいて「平さんは来なかったか」と呼んだのは、亭主の庄五郎の声で、実は藤次郎の声色だというのである。最後に戸を叩いて「おかみさん、おかみさん」と、呼んだのは、藤次郎の声である――この三つの声について、半七はいろいろ考えさせられた。
「おい、お仙」と、彼はやがて女房を呼んだ。「ちょいと出てくるから着物を出してくれ」
「これから何処へ出かけるの」
「熊のところまで行ってくる。あしたと約束したのだが、思いついたら早い方がいい。このごろは日が長げえから」
まったくこの頃の日は長い。半七が神田の家を出たのはもう七ツ(午後四時)に近いころであったが、初夏の大空はまだ青々と明るく光っていた。表には金魚を売る声がきこえた。愛宕下へ行って熊蔵の湯屋をたずねたが、店はもう客の忙がしい刻限であったので、半七は裏口へまわってそっと呼び出すと、熊蔵はきょろきょろしながら出て来た。
「親分。早うござんしたね」
「むむ。急に思いついたことが出来たので、すぐに出て来た。これから
「庄五郎の
「まあ、行ってみなけりゃあ判らねえ」
熊蔵に案内させて田町の鋳掛屋へ出かけてゆくと、隣りは小さい下駄屋で、その店との境に一本の柳が繁って垂れているのも、思いなしか何となく寂しくみえた。三十五日が過ぎれば世帯をたたむ筈になっているので、店こそ明けてあるが商売は休みで、小僧の次八がぼんやりと往来をながめていた。
「おかみさんはいるかえ」と、熊蔵は
「奥にいますよ。呼んできましょうか」
「呼んでくれ」
手拭で着物の裾をはたきながら、二人が店さきに腰をおろすと、奥では針仕事でもしていたらしく、鈴の付いた鋏を置く音がして、むすび髪の若い女房がすこしく
「この親分は御用で来なすったのだから、そのつもりで返事をしねえじゃあいけねえぜ」
お国は熊蔵を識らなかった。勿論、半七を識ろう筈はなかった。しかも御用という声をきいて、かれは神妙に店さきにうずくまった。いたずら小僧らしい次八もおとなしく小膝をついた。
「いや、別にむずかしい詮議をするんじゃあねえ」と、半七はしずかに云い出した。「早速だが、おかみさん、あの朝、一番さきに戸を叩いたのは確かに平七の声だったな」
「はい。庄さん、庄さんと呼んだだけでしたが、たしかに平さんの声でございました」と、お国は淀みなく答えた。
「二度目の声はお前は聞かなかったんだね」
「つい眠ってしまいまして……」と、お国はすこし極まり悪そうに答えた。「この次八が返事をいたしたのでございます」
「たしかに親方の声だったか」と、半七は小僧を見かえって
「わたしも半分夢中でよく判らなかったんですが、どうも親方のようでした」と、次八は云った。
「三度目のは藤次郎だね」
「はい。この時にはわたくしが起きていたのでございます」と、お国は答えた。
「藤次郎は外から、おかみさん、おかみさんと呼んだのかえ」
「はい」
「御亭主がいなくなってから、平七と藤次郎は大層親切に世話をしてくれるそうだね」
お国はすこし顔を
「こんなことを訊くのも何だが」と、半七は笑いながら云い出した。「お前はどっちかの男のところへ再縁する気があるのかえ」
「いえ、まだ三十五日も済みませんのですから、そんなことを考えたこともございません」と、お国は低い声で云った。
「それもそうだが……」と、云いかけて半七も俄かに声を低めた。「おい、あの柳のかげに立っているのは藤次郎じゃあねえか」
お国は伸びあがって表を覗いたが、やがて無言でうなずいた。それと同時に、藤次郎は柳のかげからそっと立ち去ろうとしたので、半七は急に声をかけた。
「やい、藤次郎、待て。熊、早くあの野郎をしょびいて来い、逃がすな」
熊蔵はすぐに店から飛び出して、藤次郎の腕を引っ掴むと、かれは案外におとなしく引き摺られて来た。半七はしばらくその顔をじっと睨んでいたが、やがて又にやりと笑った。
「藤次郎。貴様は運のいい奴だな。はは、とぼけた
「それはどういう御詮議でございますか」と、藤次郎はしずかに答えた。「平七の一件ならば、この間から二度も三度も番屋へ呼ばれまして、何もかも申し上げたのでございますが……」
「伊豆屋は伊豆屋、おれは俺だ。三河町の半七は別に調べることがあるんだ。やい、藤次郎。貴様は三月二十一日の朝、なんでここの
「大木戸で待ちあわせる約束をいたしましたので、そこへ行ってみますと誰もまだ来て居りません。しばらく待って居りましたが、庄五郎も平七も見えませんので、どうしたのかと思って念のために引っ返してまいったのでございます」
「その時にここの家の戸は締まっていたな」
「はい。締まっているので叩きました」
「そうして、おかみさん、おかみさんと呼んだな」
「はい」
「それ、見ろ。馬鹿野郎」と、半七は叱るように云った。「問うに落ちず、語るに落ちるとはそのことだぞ」
「なぜでございます」と、藤次郎は不思議そうに相手の顔を見あげた。
「まだ判らねえか。よく考えてみろ。約束の庄五郎が見えねえというので、ここの家へ尋ねに来たのなら、なぜ庄五郎の名を呼ばねえ。まず庄五郎の名を呼んで、それで返事がなかったら女房の名を呼ぶのが当りめえだ。初めからおかみさん、おかみさんと呼ぶ以上は、亭主のいねえのを承知に相違ねえ」
藤次郎の顔色はにわかに変った。かれは
「亭主は貴様が押し片付けてしまったのだから、ここの家にいる筈がねえ。そこで、貴様は女房を呼んだのだ。はは、これだから悪いことは出来ねえ。いや、まだ云って聞かせることがある。二度目にここの家の戸をたたいたのは、貴様が冗談に庄五郎の声色を使ったのだということだが、そりゃあ嘘の皮で、やっぱり本物の庄五郎が引っ返して来たに相違ねえ」
「いえ、それは……」と、藤次郎もあわてて打ち消そうとした。
「まあ、黙って聞け。三人のうち庄五郎が一番先に出て行って、その次に平七がここの家へ誘いに来たのだ。いくら待っても誰も出て来ねえので、庄五郎は引っ返して尋ねに来たのだが、まだ薄っ暗いので平七と途中で行き違いになったらしい。それがそもそも間違いのもとで、平七は待ちくたびれて茶店の
藤次郎は
「
「野郎、しっかりしろ」
熊蔵はいきなり平手で藤次郎の横っ面を引っぱたくと、かれは眼がさめたように叫んだ。
「恐れ入りました」
かれが縄つきで鋳掛屋の店さきから引っ立てられる頃には、四月の日もさすがに暮れかかって、うす暗い柳のかげから
これに就いて、半七老人はわたしに話したことがある。
「奉行所の
ところで、相手がこの藤次郎なぞのように素人ならば仕事は仕易いのですが、相手が
それから罪人の横っ面をなぐったりする。今からみれば乱暴かも知れませんが、玄人は度胸が