「ことしの残暑は随分ひどいね」
お
白い肌襦袢一枚の肌もあらわになって、お絹はがっかりしたようにそこに坐ると、附き添いの
「ほんとうにお暑うござんすね」と、小女のお
「暑いせいか、木戸も
「あたりまえさ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、
手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。
「
「あら、
「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの
「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し
「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、
「二、三日どころか、八月にはいってからは、
お絹は眼にみえない相手を
「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」
扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。
「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん
「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は
「お察し申しますよ」と、年増はすこし
「義理なんか知っている人間かい」と、お絹はさも憎いもののように扇を投げ捨てた。「今に見るがいい。どんな目に逢わせるか」
お君は左の手のひらにひと掴みの米をのせて来て、右の指さきで一粒ずつ
舞台の方でかちかちという
今度は前と違って、吉原の
「おばさん。きょうは三味線がのろかったぜ。もう少し
「はい、はい」
あとに残った若い女はほっとしたような顔をして、お絹が脱ぎ捨てのや
「お花さん。姐さんはひどくお
「おお曲がり。毎日みんなが呶鳴られ通しさ。やり切れない」と、お花は舌打ちした。
「だが、無理じゃあねえ。向柳原が近来の仕向け方というのも、ちっと
「まったく
「それもそうだが……」と、豊という五十男はどっちに同情していいか判らないような顔をしてまた黙ってしまった。
この一座の姐さんと呼ばれている蛇つかいのお絹には、
勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で
旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と
「どう考えても向柳原の仕打ちが
「そりゃあこっちでばかり言うことで、男の方の身になったら又どんな理屈があるかも知れないからね」と、若いお花は冷やかに言って、扇で胸をあおいでいた。
「お花さんはとかくに男の方の
「そうかも知れない」と、お花はつんと澄ましていた。「向柳原はいい男だからね」
「姐さんより年下だろう」
「ふたつ違いだから
「色男盛りだな」と、豊は羨ましそうに言った。
「世間に惚れ手もたくさんあらあね。姐さんばかりが女でもあるまい」
「悟ったもんだね」
「悟らなくって、こんな稼業ができるもんかね。姐さんはまだ悟りが開けないんだよ」
「そうかしら。だって、蛇は執念深いというぜ」
「蛇と人間と一緒にされて堪まるもんかね」
「よう、よう。浮気者」と、豊は反り返って手をうった。
「静かにおしよ。舞台へきこえらあね」
二人はだまって耳を澄ますと、舞台では見物の興をそそり立てるような、三味線の
「姐さんはまったくこの頃は顔色がよくないね」と、豊は又ささやいた。
「癇が
「浮気者にゃあ判らねえことさ」
「知らないよ。
舞台の三味線の音は吹き消したように鎮まっていた。
「おや、どうしたんだろう」
見物のざわめく声が
「大変。姐さんが舞台で倒れて……」
ふたりも飛び上がって舞台へ駈け出した。
二
向う両国の観世物小屋でこんな不意の出来事が人を驚かしたのは、文化三年の江戸の秋ももう一日でちょうど
お絹がほんとうに人心地の付いたのはそれから
お絹はもう目をあいていたが、それでもすぐに起きる元気はなかった。枕もとには前芸のお花と小女のお君のほかに地弾きのお辰と楽屋番の
「まあ、まあ、なにしろよかった。この二、三日はあんまり残暑がひどいからさ。おまけにこの楽屋はちっとも風がはいらないんだからね」
お辰は病める太夫の枕もとをそっと離れて、楽屋のうしろに垂れている荒筵を少し押し分けると、夕日の光りはもう山の手の高台に隠れて、下町の空は薄い浅黄色に暮れかかっていた。
「それでも日が落ちると、ずっと秋らしくなるね」と、お辰はもとの枕もとへかえって来た。そうして、お絹の青ざめた頬に団扇の風を軽く送りながら、その力のないひとみを覗き込むようにして訊いた。
「気分はどうですえ。もういいの」
お絹はうなずくように眼をかすかに動かした。今お辰に声をかけられるまで、彼女の魂は夢とうつつの境にさまよいながら、男と自分との楽しい過去や、
林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の
しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に
うたがいの相手はやはりこの両国の
「今に証拠を見つけてやる」と、彼女は心のうちで叫んでいた。お辰やお花にも
今も夢うつつでその事ばかりを考えていた。もう少し涼しくなると、彼女は
それが悲しいか、怖ろしいか、気味がいいか、嬉しいか、お絹もそれをはっきりと意識するには、頭が余りにぼんやりしていた。
「もう一度お茶を飲みませんか」と、お君が声をかけた。
お絹は又もや微かにうなずいた。薬を飲まされて、あたりが少し明かるくなったように思われた。彼女は
「もう何ともありませんか」と、お花も摺り寄って訊いた。
「もう大丈夫、みんなもびっくりしたろうね。堪忍しておくれよ」と、お絹は案外にはきはきした声で言った。
「歩いて帰れますか。駕籠でも呼んでもらいましょうか」と、お花はまた訊いた。
「そうねえ」
お絹は
「なに、もういいだろう。あたし、あるいて帰るよ。すぐそこだもの」
酔いざめの人のように、まだ何となくふらふらする足元を踏みしめて、お絹は
残暑は日の中のひとしきりで、暮れつくすと大川端には涼しい夕風が行く水と共に流れていた。高く澄んだ空には美しい玉のような星の光りが、二つ三つぱっちりとかがやいて、十四日の月を
「じゃあ、お大事に……。あしたまた……」
お辰とお花はお絹に挨拶して別れた。お花は帰りに深川のお若の家へ寄って、病気の様子をみて来ると言った。
「そうしておくれよ。あたしだって又なんどき倒れるか知れないから」
お絹はお君に蛇の箱を持たせて本所の方へ行きかけたが、すぐに立ち停まって明るい広小路の方を
橋を渡り尽くしてお君も初めてさとった。お絹は列び茶屋の
お里はことし十八で、とかくにいろいろの浮いた噂を立てられ易いここらの茶屋娘のなかでも、
「たいへんに涼しくなりましたねえ」と、お君はわれ知らずに口から出たように言った。
ことしは残暑が強いので、お絹もお君もまわりの人たちもみな白地を着ていた。その白い影がなんとなく薄ら寂しく見えるほどに、今夜の風は俄かに秋らしくなった。
三
お絹は茶代を置いて床几を立った。
「もうちっとそこらをぶら付いて見ようじゃないか」と、彼女はお君を見返った。「それにしてもお
「あら、姐さん肥りたいの」と、お君は暗いなかで驚いた顔をしているらしかった。
「お前も肥るほうがいいよ。あたしのように痩せっぽちだと、さっきのように直きにぶっ倒れるよ」
こう言ううちにもお絹の眼には、小肥りに肥ってやや
「何だってあたしは、あいつの顔をわざわざ見に行ったんだろう」
ひょっとすると、そこに林之助を見つけ出すかも知れないと思わないでもなかったが、お絹はそれよりもまずなんとなくお里の様子が見たかったのであった。見てどうするということもない。まさかに喧嘩を売るわけにもいかない。
「もう気分はすっかりいいんですか」と、お君はまた訊いた。
「ああ、もう大丈夫だよ」
お君に酌をさせて、お絹は酒を飲んだ。酒は舌に
燭台の
「君ちゃん。なんだか陰気だから、そこの窓をおあけよ」
お君があけた肱掛け窓から秋の夜風は水のように流れ込んだ。となりの露地口の土蔵の白壁は今夜の月に明かるく照らされて、屋根の瓦には露のようなものが白く光っていた。お絹は林之助が
こんな子供を相手にしても仕方がないと思いながらも、お絹はおみくじを探るような気でお君に訊いてみた。
「お前、林さんが不二屋へ行くと思うかい。そうして、あのお里さんと仲よくしていると思うかい」
「そんなこと知りませんわ」と、お君は食べかけた鰻のしっぽを口から出したり入れたりしながら答えた。「だけれども、そんなことはないでしょう。誰だって本当に見た人はないんですもの。お花さんは誰のことでもそう言うんですから」
お花にそんな癖のあることは事実であった。男と女とが少し馴れなれしく
「嘘ですよ。きっと嘘ですよ」と、お君は鰻をのみ込んでしまってまた言った。
子供は正直である。正直なお君の口からこういう保証の
お絹とお君が夜露にぬれて一つ目の家へ帰り着いたのは、その夜の五つごろ(午後八時)であった。家には毎日留守番をたのむ隣りのお婆さんが眠そうな眼をして待っていた。お婆さんはお土産の
「君ちゃん。戸をお閉めよ。もうすぐに寝ようじゃないか」
「はい」
お君は素直に格子を閉めにいった。お君は近所の大工の娘で、家の都合がよくないのと、現在の母は生みの親でないのとで、去年からお絹の
「お
眠い盛りのお君は床にはいると直ぐに又たたき起された。寝ぼけまなこを
「あら、林さん」
「たいへんに早寝だね」と、林之助は笑っていた。「姐さんはもう寝たのか」
お君にあとを閉めさせ、林之助はずっと奥の六畳へ通ると、お絹はもう寝床から脱け出していた。
林之助は主人の使いで
「どうしたい。顔の色が悪いじゃないか」
「きょうは舞台で倒れたの」
「そりゃあいけない。どうしたんだ」
「なに、すぐに癒ったの。やっぱり暑気あたりだってお医者がそう言って……」
「なにしろ、大事にするがいいぜ。悪いようならば無理をしないで、二、三日休んで養生した方がいいだろう」
「いいえ、それほどでもなかろうと思っているの。いっそひと思いに死んだ方がいいかも知れない」
こんな問答をしているうちにも、お絹は眼にみえない何物をか相手の顔色から見いだそうと努めているように、絶えずその顔をじっと見つめていると、男は女のひとみを恐れるように
女はこの頃の無沙汰について正面から男を責めようともしなかった。男も言いそそくれたようなふうで、自分からはなんにも言い出さなかった。お絹は長い
「あたし、考えると、さっきあのままで死んでしまった方が仕合せだったかも知れない。生きていたところで、あんまり面白い世の中でもなし、ひと思いに死んでしまった方が未練が残らなくっていい」
ふた口目には死にたいと繰り返して言うお絹の
「君ちゃん。お酒は無いかい」と、お絹は次の間へ声をかけた。
「いや、そうしちゃあいられない。もうすぐに帰らなけりゃあならないんだ。あんまり無沙汰をしているから、唯ちょいと寄って見たのさ。もう五つ過ぎだ。早く帰らなけりゃならない。
「それだから屋敷者は
「冗談じゃあねえ」と、林之助は仕方なしに笑った。「いつも言う通り、おれも侍の子だ。いつまでもお前の厄介になって唯ぶらぶらしているのもあんまり
「へん、久しいものさ」
お絹は煙管を取って又すい始めた。そうして、横眼で男の顔をじろじろ眺めていた。その蛇のような眼が男にはおそろしかった。
お絹は色の青白い
しかし林之助は、彼女の怪しい眼を恐れると同時に、彼女のあたたかい情けを忘れるほどの不人情者ではなかった。彼はお絹を振り放そうとは思わなかった。さりとて余りに接近するのも不安であった。つづめて言えば、
今夜もそのおそろしい眼と向き合っている。
林之助が努めて相手の視線の外に逃がれ出ようと顔をそむけているのも、彼としてはまことによんどころない事情であった。それが久し振りで逢ったお絹にはなんだか物足りないような、疑わしいもののように思われてならなかった。
二人は又しばらく黙っていた。縁の下では虫の声がきこえた。
四
「林さん。お前さん、お互いにこうしていては詰まらないとお思いでないかえ」
お絹はしずかに煙管をはたきながら、またしても男のこころを探るような疑いぶかい眼をして訊いた。林之助もまともに向き直らないわけにいかなくなった。
「つまる、つまらないの論じゃない。いつも言う通り、今がお互いの辛抱どきだ。そりゃあこうして離れていれば、おれだって寂しいこともある。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して
林之助の言うことは
そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。
「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを
「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の
これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は
今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな
男も
「まあ、からだを大事にするがいい。又近いうちに来るから」
「列び茶屋へばかり行かないでね、ちっとこっちへも来てくださいよ」
思い余ったお絹の口から
「列び茶屋へ行く……。誰が」
「お前さんがさ。みんな知っているよ」
乗りかかった船で、お絹もこう言った。
「へん、つまらねえことを言うな」
問題にならないというような顔をして、男はすたすた出て行こうとした。
そのうしろ姿をじっと見つめているうちに、お絹は物に
「林さん。おまえさん、ずいぶん薄情だね」
だしぬけに鋭いヒステリックの声を浴びせられて、気でも違いはしないかというように、林之助は
「お前さん、あたしというものをどうして呉れるつもりなの。おまえさんを屋敷へやった以上は、どうで二人のあいだに長い正月のないことはあたしも大抵あきらめていたけれども、目と鼻の広小路へ来て列び茶屋の娘とふざけ散らしている。そんなことをされて、おとなしく見物しているあたしだと思っているのかえ」と、お絹は早口に言った。「いつもいう通り、蛇は執念ぶかいんだから、そう思っておいでなさいよ」
「列び茶屋の娘……。そりゃあ思いもつかねえ
「悪くお洒落でないよ」と、お絹は男の肩を一つ小突いた。「お前さんが不二屋のお里とトチ狂っていることは両国でみんな知っているんだよ。さあ、これからあたしと一緒に不二屋へ行って、あたしの眼の前でお里と手を切っておくれ」
林之助はいよいよ
「馬鹿だな。誰かにしゃくられたと見える」と、林之助はなまじ言い訳をしない方が却って自分の潔白を証明するかのように、ただ軽く笑っていた。
それでもお絹はどうしても
「あれ、姐さん」
「姐さん、お待ちなさいよ。林さんはもう遠くへ行ってしまったわ」
お絹は燃えるような息をついて土間に突っ立っていた。
「姐さん、嘘よ、嘘よ。お花さんの言うことはみんな嘘よ。林さんはなんにも知りゃあしないのよ。列び茶屋の娘なんて皆んな嘘よ。きっと嘘に相違ないのよ」
嘘という字を幾つも列べて、お君はおどおどしながらも一生懸命にお絹をなだめようとすると、お絹は解けかかった水色の
「
台所から
「さっきのお薬をあげましょうか」
「いいよ、いいよ。あたしに構わずに寝ておしまいよ」と、お絹はうるさそうに俯向きながら言った。
お君は起って格子を閉めに行ったが、やがて引っ返して来てお絹の枕もとに坐った。縁の下でじいじいと刻んでゆくような虫の声が又もや耳についた。どこかの隙き間から忍び込んで来る夜の冷たい風に、行燈のうす紅い灯が微かにちろちろと揺らめいて、痩せおとろえた秋の蚊がその火影に迷っていた。
「もうお前、お寝よ。あしたの朝、眠いから」
「あたし、今夜は起きていますわ」
「あたしはもういいんだよ」
「でも、こんなに癇がたっていて、どんなことがあるかも知れませんもの。姐さん、ほんとうにからだを大事にしてくださいよ」
「いいよ、判っているよ」と、お絹は
叱られてもお君はまだそこにしょんぼりと坐っていた。露地のなかで犬の声がきこえたので、もしや林之助がまた引っ返して来たのではないかと、お君はそっと起って行って雨戸の外に耳を澄ましたが、犬の声はしだいに遠くなって、
「誰か来たの」と、お絹は急に顔をあげた。
「いいえ」と、お君は枕もとへそろそろとまた戻って来た。
「お前、いい加減にしてお寝よ」
「ええ」と、お君はまだ渋っていた。
「言うことを聞かないと承知しないよ」
枕をつかんで叩き付けそうな権幕をみせても、お君はまだ強情に動かなかった。黙って坐っている彼女の小さい眼からは白いしずくがほろほろと流れていた。それを見ると、お絹は急に堪まらなくなったように、蒲団の上から滑り出してお君のからだを横抱きにしっかりと抱えた。
「君ちゃん、堪忍しておくれよ。あたし、この頃は時どきに癇が起るんだからね。もうなんにも叱りゃあしないよ。ね、ね、いいだろう。これからはいつまでも仲よくしようね」
お君の濡れた顔をじっと見つめながら、お絹は自分も子供のようにしくしくと泣き出した。なんとも言い知れない悲しさが胸の底から
五
お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、
「門番のじじいにまた
そんなことを考えながら林之助は広小路へ出ると、列び茶屋でももう提灯をおろし始めたとみえて、どこの店でも床几を片づけていた。
「今晩は。今お帰りでございますか」
自分の前をゆく若い女がふと振りむいて丁寧に挨拶したので、林之助も足を停めてよく見ると、女は不二屋のお里であった。
「やあ、今晩は。
「ええ、外神田で……」
向柳原へ帰る男と外神田へ帰る女とは、途中まで肩をならべて歩いた。お絹から思いもよらない疑いを受けている林之助は、こうして夜ふけにお里と繋がって歩いていることが何だか
「いいお月さまですことね」と、お里は明るい月をさも
「ほんとうにいい月だ。あしたのお月見はどこも賑やかいだろう。里ちゃんも船か高台か、いずれお約束があるだろうね」
「いいえ、
家がやかましいのか、本人の生まれ付きか、とにかくにお里が物堅い
お絹は今夜自分を不二屋へ引き摺って行って、彼女の見る前でお里と手を切らせると言った。勿論、それは一時の言い懸りではあろうが、もし果たしてその通りに二人が不二屋へ押し掛けて行ったら、お里は一体どうするであろう。それを考えると、林之助はおかしくもあり、また気の毒でもあった。そのお里はなんにも知らずに自分と一緒にあるいている。人目には
「いつも一人で帰るの」
「いいえ」
列び茶屋の或る家に奉公しているお
「わたしはあっちへいくんだから、ここでお別れだ。まあ気を付けて……」
「はい。ありがとうございます」と、お里は頼りないような声で挨拶した。
それが何となしに哀れを誘って、林之助はいっそ彼女の家まで一緒に送って行ってやろうかとも思ったが、自分も屋敷の門限を気遣っているので、このうえ道草を食っているわけにはいかなかった。そのままお里に別れて橋を渡り過ぎながらふと見かえると、堤の柳は夜風に白くなびいて、稲荷のやしろの大きい
五、六間もゆき過ぎたかと思うと、あずま下駄のあわただしい音が、うしろから林之助を追って来た。振り向いてみると、それはお里であった。彼女は林之助にわかれると急に寂しく心細くなったので、ちっとぐらい廻り路をしてもいいから、自分も柳原堤をまっすぐに行かずに、林之助と一緒に向柳原へまわって、それから外神田へ出ようというのであった。ふたりはまた一緒にあるき出した。
「しかし、向柳原まで来ちゃあ余程の廻り路になる。じゃあ、いっそわたしがお前の家まで送ってあげよう」と、林之助も見かねて言い出した。
お里も初めは辞退していたが、しまいには男の言うことをきいて、外神田の家まで送って貰うことになった。月はいよいよ冴え渡って、人通りの少ない夜の町をさまよっているたった二人の若い男と若い女をあざやかに照らした。ふたりの肌と肌は夜露にぬれて、冷たいままに寄り添ってあるいた。あるく道々で、お里は自分の身の上などを少しばかり話し出した。
お里は不二屋の娘ではなかった。不二屋の株を持っている婆さんはもう隠居して、日本橋の或る女が揚げ銭で店を借りている。お里はその女の遠縁に当るので、おととしの夏場から手伝いに頼まれて、外神田の
「よけいなお世話だが、早くしっかりした婿でも貰ったらよさそうなもんだが……」と、林之助は慰めるように言った。
「なんにも
お里の声は
不二屋へ毎晩はいり込む客の八分通りは皆んなこのお里を
それは茶屋女の習いと林之助も今まで何の注意も払わずにいたが、今夜は彼女の身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。
二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの
林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。
「どうもありがとうございました。さぞ御疑惑でございましたろう」
外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は
お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。
「お絹に済まない」
お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の
ひとにむかって何と上手に言い訳をしようとも、自分の心にむかっては立派に言い訳することができないような、うしろ暗い自分の行ないを林之助は自分で咎めた。
誰に水をさされたのか知らないが、お絹が飛んでもない疑いや妬みに心を狂わせるというのも、つまりは自分が無沙汰をかさねた結果である。世間には病気の女房をもっている夫もある。大あばたの女と仲よくしている男もある。うす気味の悪い蛇の眼を自分ばかりが恐れて嫌うのは間違っている。これからはまず自分の心を持ち直して、お絹のみだれ心を鎮める工夫をしなければならない。自分と、お絹と、蛇と、この三つは引き離すことの出来ない因果であると悟らなければならない。そうは思いきわめながらも、林之助がまつげの
屋敷の門前へ来て再び空を仰ぐと、月は遠い火の見
六
十五夜のあくる日は雨になって、残暑は大川の水に押し流されたように消えてしまった。二十九日は打ちどめの花火というので、柳橋の茶屋や船宿では
両国の秋――お絹はその秋の哀れを最も悲しく感じている一人であった。十四日の夜以来、林之助は思い出したように足近くたずねて来た。しかし、いつもそわそわして忙がしそうに帰って行った。
「
「来なければ来ないで恨みをいう、来れば来るで愚痴をいう。困ったお嬢さまだ」と、林之助は笑っていた。
まったく林之助の言う通り、どっちにしてもお絹には不足があった。男が屋敷奉公をやめて、再び自分の
「お菓子はいかがです」
五十を二つ三つも越したらしい女が駄菓子の箱をさげて楽屋へそっとはいって来た。あさってが花火という二十六日のひる過ぎで、お絹が例の水色のをぬいで、中入りに一服すっているところであった。
「相変らずお
「お前さん、ずいぶん意地が綺麗だね。まだお医者の薬を飲んでいる癖に……」と、そばからお花も摺り寄って来た。そうして、「姐さん、いかが」と、笑いながらお絹にきいた。
「たくさん」と、お絹は重そうに
「どうも御馳走さま」
みんなが一度に挨拶して、お若もお花もお君も、地弾きのお辰も、楽屋番の豊吉も、麩にあつまって来る鯉のように四方から菓子の箱を取りまいた。菓子売りはここらの観世物小屋の楽屋の者や列び茶屋の客などを相手に、毎日諸方へ入り込んでいるお
「おまえさん、列び茶屋へも行くんだね」と、お花は菓子を食ったあとの指をなめながらお此に訊いた。
「はい。まいります」
「不二屋へも行くだろう」
「はい」
お花はお絹に眼くばせをしながら、なに食わぬ顔でお此にまた訊いた。
「おまえさん、あの不二屋の
「おとなしい姐さんでございますね」
「あの子に、このごろ
「さあ、そんなことは存じませんが……」と、お此は笑っていた。
「向柳原のほうのお屋敷さんだっていうじゃあないか」と、お花も笑いながらカマを掛けた。「おまえさん、毎日行くんだもの、知っているだろう」
お此の返事はあいまいであった。単に向柳原の屋敷者といえば大勢あるが、お絹の男も向柳原にいることをお此はかねて知っていた。その男がその不二屋へ遊びにゆくこともお此はやはり知っていた。ここでうっかりしたことをしゃべって、どんな当り障りがないとも限らない。諸方へ出入りする自分の商売上、なるべくこんな問題には係り合わない方が利口だと思ったらしく、お此は巧みにお花の問いを避けて、あさっての花火の噂などを始めた。
さっきから少しく眼の色の変っていたお絹は、もう焦れったくて堪まらないという気色で、倚りかかっていた箱をかかえながら
「お此さん」
その権幕が激しいので、相手はうろたえた。
「は、はい」
「向柳原といえば大抵判っているだろう。あたしのとこの林さんのことさ。あの人がこの頃むやみに不二屋へ行く。きのうもおとといも、さきおとといも、はいり込んでいたというが本当かえ。そうして、あのお里という子とおかしいというのも本当だろうね」
お此は返事に困ったような顔をしていた。しかし果たして林之助とお里とのあいだに
林之助とお里との問題については、お花は初めから情交ありげに
「お此さん。おまえさんも強情を張らないで、知っているだけのことは言っておしまいよ」と、お花もそばから口を出して責めた。
「だって、お前さん。あたしがその本人じゃあるまいし、人のことがどうして判るもんですかね。そんな無理なことを……」
半分言うか言わないうちに、お絹は黙ってお此の腕をつかんだ。
「あ、姐さん。どうなさるんです。ひどいことを……」
振り放そうともがくお此の痩せ腕を、お絹は
「さあ、言わないか」
お此は真っ蒼になって口もきけなかった。彼女は死んだ者のようになって唯ぼんやりしていると、お絹はものすごい眼をしてあざ笑った。
「じゃあ、隠さずに言うかえ。なんでもいいからお前さんの知っているだけのことを言っておしまいよ」
世にもおそろしい蛇責めに逢っては、お此もしょせん逃がれる
「お前さん、知らない筈がないじゃあないか。お前さんがお里の家のすぐ近所にいるということも、あたしはちゃんと知っているんだよ」と、お絹は
お絹が根ほり葉ほりの詮議に対して、お此も知っているだけのことを何でも答えた。しかし十四日の月を踏んでお里が林之助に送られて帰ったことは、二人のほかに知る者はなかった。お此もむろん知っていなかった。
お絹がお此を残酷にさいなんで、ようよう聞き出した新しい事実は、以前よりもこの頃はお里の店へ林之助が足近く通って来るというだけのことに過ぎなかったが、それだけのことでもお絹の胸の火をあおるには特别であった。
「お此さん、ありがとうよ」と、お絹はわざと落ち着いたような声で言った。「もうそのほかにお前さんの知っていることはなんにもないんだね」
林之助がどんな着物を着ていたとか、どんな菓子を買って食ったとか、お里にどんな冗談を言ったとか、茶代は幾らぐらい置いたらしいとか、そんなことまで残らずしゃべり尽くしてしまったお此は、もうこの上はおそろしい蛇を
「
「もういいでしょうよ。姐さん」
お花も見かねて取りなし顔に言った。自分が先き立ちになってお此を責めたのではあるが、蛇責めのむごい
罪のないお此をそれほどに
「あんまり窘めて済まなかったね。こりゃあお菓子の代だよ」
「その代りにお前さんにことづけを頼みたいんだがね。不二屋のお里に逢ったらば、これから林さんをいっさい寄せ付けないようにしてくれと、そう言っておくれ。いいかい。よく忘れないようにお里に言っておくれよ。もしこののちも相変らず不二屋に林さんの姿を見掛けるようなことがあると……」
青い蛇の首がお絹の袂の下から出た。
「あたしはこれを持ってお里のところへお礼に行くからね」
「姐さんばかりじゃない。あたし達も加勢に行くよ」と、お花も一緒になって嚇した。
嚇されてお此はまた縮みあがった。
「冗談じゃあない、本当にこれでお里の頸を絞めてやるから」と、お絹の白い手のさきには蛇の頭が気味悪くうごめいていた。
お此は二朱の銀を頂いて早々に逃げて帰った。
七
「まあ、誰から来たんだろうね」
大きい
「誰が呉れたの」と、お花が訊いた。
「あとで判りやす」
又蔵は笑いながら行ってしまった。お遣い物の
「きょうは御馳走のある日だったね」と、地弾きのお辰は海苔の付いたくちびるを拭きながら、
「みんな姐さんのお蔭さ」と、お若も茶を飲みながら
飲み食いの時にばかり我れ勝ちに寄って来ても、まさかの時には本当の力になってくれる者は一人もあるまい。お絹はその軽薄を憎むよりも、そうした境遇に沈んでいる自分の今の身が悲しく
それに付けても林之助がいよいよ恋しくなった。自分が取りすがってゆく人は林之助のほかにはない。もうこれからは決して無理も言うまい。我儘も言うまい。どこまでもおとなしくあの人の機嫌を取って、見捨てられないようにする
「又ちゃん。なに……」
又蔵によび出されて、お花は楽屋口へ
「お花さん。
お花は黙ってうなずいた。
「当ててみようか。浅草の
「楽屋番さんにして置くのは惜しいね」
「
「浅草の大将、だんだんに
「見料五十文は惜しくない」と、お花は澄まして笑っていた。
「だが、罪だな」と、豊吉は勿体らしく首をひねった。「なぜと言いねえ。取り巻きのおめえ達はそれでよかろうが、姐さんはいい
「姐さんもちっとは浮気をするがいいのさ」
「などと
「人聞きの悪いことをお言いでないよ」
豊吉の推測はことごとく
二挺の駕籠が
「どうも遅くなりました」と、お花は丁寧に挨拶した。
お絹は燭台の灯に顔をそむけて坐った。
女中はなんにも言わずに二人をじろじろ見ながらつんと立って行った。その素振りがなんだか自分たちを
「それでもよく出て来てくれたね」
男がさした杯をお絹はだまって受取って、お花に酌をさせてひと口飲んだ。お花が取持ち顔に何かいろいろの話を仕向けると、男も軽い口で受けた。
男は浅草の和泉屋という質屋の
男振りもまんざらではない、道楽者だけに
第一には、この
それから更に面白くないのは千次郎の態度であった。なるほど道楽者だけに話も面白い。すべての取りまわしも
女中たちに対する不平と、千次郎に対する不快と、この二つがお絹を駆ってしたたかに酒を飲ませた。彼女は
「あの、お前さん。あんまり飲むと毒ですよ」
「いくら飲んだっていいよ。あたしが飲むんじゃないから」と、眼付きのいよいよ
それを見てお花はいよいよ不安に思った。
もしやさっきのお此の二の舞をここで
「なにをするんだよ。人の袂へ手をやって……。おまえ
「なんだ、なんだ。袂に大事の一巻でも忍ばせてあるのか」と、千次郎は笑った。
「ええ、大事なものよ。おまえさんに見せて上げましょうか。あたしの袂に忍ばせてあるのは商売道具の青大将よ」
そばにいた女中たちはきゃっといって飛び上がった。まだその正体を見とどけないうちに、千次郎も顔色を変えて起ち上がった。お絹はあざ笑いながら両方の袂を軽く振ってみせた。
「ほら、ご覧なさい。大丈夫。だが、和泉屋の若旦那。おまえさんは随分たのもしくないのね。あたしの商売がなんだということを今初めて知ったんじゃありますまい。それを承知の上でここまで呼び出して置きながら、蛇と聞くと直ぐに
お絹はもう行儀よく坐っていられないほどに酔いくずれていた。彼女は片手を畳に突いて、ぐったりと疲れた人のように、痩せた肩で大きい息をついていた。
「ねえ、花ちゃん。向柳原はまったく頼もしいね。家を勘当されても、浪人しても、蛇とあたしと一緒に暮らしていたいと言うんだからね。あたしも今夜という今夜つくづく悟ったよ。女がほんとうに可愛いと思う男は、一生にたった一人しか見付からないもんだね。どう考えても浮気はできない。花ちゃん。お前、なんだってあたしをこんな所へ連れて来たんだえ。ええ、くやしい」
彼女はお花の膝にしがみ付いたかと思うと、更にその
「手に負えねえ女だ」と、千次郎は持てあましたように
「姐さん。あやまった、あやまった。堪忍、堪忍……」
お花は小突かれながら頻りにあやまると、お絹は相手を突き放してすっくと起ちあがった。乱れた髪は黒い幕のように彼女の蒼い顔をとざして、そのあいだから物凄い二つの眼ばかりが草隠れの蛇のように光っていた。
「あたし、もう帰りますよ。誰がこんな所にいるもんか。駕籠を呼んでくださいよ」
八
向島を出たお絹の駕籠は四つ(午後十時)頃に、向柳原の杉浦家の門前におろされた。
駕籠屋にはなんにも言わないで、お絹はよろよろと
「どなた……」
門番は大きく呼んだ。
「あたしですよ」と、お絹は答えた。「仁科林之助さんに逢わしてください」
「門限をご存じないか」
「それでも急用なんですよ。早く明けてください。
その
「急用でも夜はいけない。あしたまた出直して来さっしゃい」
「
「おまえは一体だれだ。どこの者だ」と、門番は声をとがらせた。
「林之助の女房ですよ」
「林之助の女房……」
「だから、早く逢わしてください」
「では、待たっしゃい」
門番は不承ぶしょうに奥へはいった。お絹は古い門柱へ倒れるように
やがて潜り門の錠をあける音がからめいて、暗い中から林之助の白い姿が浮き出した。林之助は白地の
「林さん」
声をかけて寄ろうとするお絹を、男は押し戻すようにして門の外へ出た。ふたりは長屋の窓下を流れている小さい
「おい、どうしたんだ。今時分こんなところへやって来て……」と、林之助は小声で叱るように言った。
「お前さんに逢いたくって……」
「馬鹿」と、林之助はまた叱った。
武家奉公の林之助が両国の蛇つかいに馴染みがあるなどということは、もちろん秘密にしなければならない。どんなことがあっても屋敷へ訪ねて来てはならないと、かねて固く言い含めてあるのに、夜中だしぬけに御門を叩いて自分をよび出しに来るとは、あんまり遠慮がなさ過ぎると、林之助は呆れて腹が立った。
「どうで馬鹿ですから堪忍してください。あたし、今夜はどうしてもお前さんに逢いたくって、逢いたくって……」
その酒臭い息と、もつれた舌とで、女がひどく酔っているのを林之助は早くも覚った。なまじいここでぐずぐず言っているよりも、だまして早く追い返した方が無事らしいと気がついて、彼はそこに待っている駕籠屋を呼んだ。
「おい、おい。この女はだいぶ酔っているようだ。気をつけて送ってくれ。お絹、いずれあした逢って詳しい話を聞くから、今夜はおとなしく帰ってくれ」
「あい」
「それとも何か急に用でも出来たのか」
返事に困ってお絹はぼんやりと黙っていた。
ふとした浮気からお花に誘い出されたが、さて行って見ると面白くないことだらけで、胸のむしゃくしゃに堪えないお絹は、その反動で林之助が
それでも直ぐにおとなしく帰ろうとはしなかった。
「おまえさん、今夜出られないの」
「どこへ行くんだ」
「あたしの
もう一度「馬鹿」と言いたいのを林之助は
「林さん。あたし、これからは何でもお前さんのいうことを素直に聞きますからね。不二屋へ行っちゃあいやよ。え、よくって」
「承知、承知」
「遅く門をあけさせて、気の毒だったな」
門番に挨拶して林之助は自分の部屋へ帰った。
寝入りばなを起された彼は、目が冴えて再び眠られなかった。お絹は今夜なにしに来たのであろう。おそらく酒に酔った勢いで唯なにが無しにここへ押し掛けて来たものと解釈するよりほかはなかった。この頃だんだんに狂女染みて来るお絹の乱れ心を林之助は悲しく浅ましく思った。これがいよいよ
お絹は自分を本所の
「執り殺すなら、殺してみろ」
こういう口の下から、彼は言い知れぬ恐怖に
あくる朝はなんだか気分が
「留守にまた押し掛けて来やあしまいか」
あやぶみながら帰って来たが、お絹はきょうは姿を見せなかったらしい。誰もたずねて来なかったという門番の話を聴いて林之助はまずほっとした。その日は一日陰っていて、夕方から霧のような雨がしとしとと降って来た。急に
雨はその晩から明くる日まで降り通した。きょうの花火はお流れであろうと、林之助は雨の音をわびしく聞いた。そうして、雨の降る日にでも遊びに来てくれと、このあいだの晩お里にささやかれたことを思い出した。しかし彼はどうしてもお絹の方へ行かなければならないと思い直した。きょうも
打ちどめの花火を雨に流された両国の界隈は、みじめなほどに寂れていて、
林之助も暗い心持ちで長い橋を渡った。
九
今頃
「まあ、一服おあがんなさいまし」
豊吉に煙草盆を出され、林之助も直ぐには起たれなかった。殊に楽屋じゅうの者ともみんな顔を識り合っているので、彼はしめっぽい座蒲団の上に片膝をおろして、煙草をすいながら
「ごめんなさい」と、お花は林之助に
「あたしの引っ込んで来るまでに、よく沸かして置いて頂戴よ。からだを拭くんだから」
「あい、あい」
「姐さんがいないと思って
「へん、馬鹿にしていやあがる」と、豊吉は罵るように言った。「からだが拭きたけりゃ大川へでもぽんぽん飛び込むがいいや」
「でも、きょうは姐さんの代りを勤めているんだから、仕方がないさ」と、お若は妬ましそうに言った。
「姐さんはよっぽど悪いのかね」
林之助に訊かれて、お若はすぐにうなずいた。
「そりゃまったく悪いらしいんですよ。なんでもおとといの晩は大変にお酒を飲んで、夜風に吹かれてそこらを夜なかまでうろうろしていたんで、風邪を引いたらしいですよ」
「おとといの晩……」と、林之助はすこし考えた。「一体どこでそんなに飲んだんだろう」
ふだんからお花とは余り仲のよくないらしいお若は、この問いに対して無遠慮にべらべらしゃべった。なんでもおとといの晩、姐さんはお花に誘い出されて向島のある料理茶屋へ行った。そこで無暗に飲んで来たらしいと言った。
「お花が
「どうですかねえ」と、お若は意味ありげに笑っていた。
お花がそんな所へ連れ出して奢る筈がない。客に連れられて行ったに相違ないということは、林之助にもすぐに判った。
「花ちゃんは悪い人よ」
こう言ったお若は、豊吉と眼を見あわせて急に口をつぐんだ。
林之助は面白くなかった。これには何か深い意味が忍んでいるらしく思われた。しかしこの上に
外へ出ると雨はまだびしょびしょと降っていた。林之助は傘をかついで往来にぼんやり突っ立っていた。病気と聞いたらばなおさら急いでお絹を見舞うべきであるのに、彼はなんだか足が向かなかった。今の話の様子では、お花の取持ちで或る客と向島へ行ったらしい。しかもそれが普通の客ではないらしく思われてならなかった。自分のところへ押し掛けて来たのはその帰り途に相違ない。当てつけらしく自分をからかいに来たのか、それとも後悔してあやまりに来たのか。いずれにしても、林之助はいい心持ちでその話を聞くことは出来なかった。
「しかし折角ここまで来たもんだ。行ってみよう」
林之助はまっすぐに本所へ行った。傘をかたむけて狭い路地へはいると、路地のかどの店にはもう焼芋のけむりが流れていた。お絹の家は昼でも表の戸が閉めてあったが、叩くとお君がすぐに出て来た。
「おそろしく认真がいいね」
「ここらは下駄を取られますから。格子に
奥に寝ていたお絹はすぐに起き直ったらしい。林之助が
「お前さん。きのうなぜ来てくれなかったの」
「きのうは御用で牛込へ行った」
枕もとに坐った林之助の顔を、お絹は黙ってじっと眺めているので、彼は堪えられなくなって眼をそむけた。
「下手な
「屋敷者も楽じゃあねえ」
「楽じゃあねえ屋敷者を好んでする人もあるのさ。誰も頼みもしないのに……」と、お絹は口で笑いながら睨んだ。
「一体どこが悪いんだ。飲み過ぎたんだというじゃあねえか」
「両国の方へ寄ったの。お花に逢って……」
「むむ。みんなに逢った」
お絹はしばらく黙って俯向いて、油の匂う枕をうっとりと見つめていた。もう枯れかかった朝顔の鉢を一つ列べてある低い窓の外には、雨の音がむせぶように聞えた。
「林さん」と、お絹はだしぬけに言った。「あたし、お前さんにあやまることがあるの。実はおとといの晩、お花にうっかり誘い出されて、向島の料理茶屋へ行ったと思ってください。石を抱くまでもない、あたしは何もかも正直に白状しますよ。そのお客というのは
「それだけのことなら何もあやまる筋でもあるめえ。おらあもっと悪いことをしたのかと思った」と、林之助は少し皮肉らしく笑った。
「なんとでも言うがいいのさ」と、お絹も寂しく笑っていた。
お君が
その一枚の絵は
彼はここへ身を寄せてからの小一年のあいだの出来事を、それからそれへと思いうかべた。そうして、自分の眼の前に悩ましげに坐っているお絹の衰えた姿を
「お前さん。まだあたしを疑っているの」と、お絹は蒲団に片手を突きながら訊いた。
「なに、なんとも思うものか」
差しあたっては林之助はこう言うよりほかはなかった。彼はこの上に向島の一件を詮議するわけにもいかなかった。お絹もきょうはお里のことはひと言もいわなかった。ふたりは秋の雨を聞きながら静かに世間話などをしていた。二人がこれほどむつまじく
しかし、こうして打解けているのは表向きで、二人の魂はかえってしだいに遠ざかっていくのではないか、というような寂しい思いが林之助の胸に湧いた。口では何とも思っていないと言うものの、向島の一件はまだ自分の胸の奥にわだかまっている。お絹もお里のことを忘れたのではあるまい。たがいの胸に思うことを
お絹の胸にも不安のかたまりが
医者にも大事にしろと言われたが、けさから身体に
それにつけても、向島の一件を林之助が案外手軽く聞き流しているのが不安であった。お花やお若のおしゃべりが何を言ったか知れたものではない。それを林之助はどう聞いたか、なんと思っているのか、なまじ、何も言わずに打解けた様子を見せているだけに、心の奥底が知れなかった。
お絹も林之助もこうした別々の心をもちながら、日の暮れる頃まで仲よく話した。あまり長く起きていては悪かろうと、お絹を寝かして林之助はそっと帰った。
「姐さんに気をつけておくれよ」と、林之助はお君に頼んで路地を出た。
暗い雨の音が、傘をたたいて、本所七不思議の狸でも化けて出そうな夕暮れであった。薄ら寂しくなった林之助は、これから屋敷へ帰って余りうまくもない
彼は一人でちびりちびりと酒を飲んだ。
十
その晩の四つ(十時)過ぎに、林之助は屋敷へ帰った。
「どうも遅くなって済まないね」
門番のおやじに挨拶して、彼は自分の部屋にはいった。うすら寒い雨の夜をあるいて来て、内へはいると急に酒の酔いが発したらしく、彼はかっかとほてる頬をおさえて自分の小さい机の上にしばらく俯伏していた。それからしずかに起ちあがって、戸棚から蒲団と
彼は両国の軍鶏屋で一人さびしく飲んでいた。しだいに酔いがまわって来るに連れて、彼はお里のことをふと思い出した。雨の降る日にでも遊びに来てくれとささやかれた甘い言葉を、又しても思い出した。きょうの雨で花火はお流れになって、列び茶屋も大抵休んでいることを彼はさっき見て知っているので、お里は
「これから行って見ようかしら」
林之助はふらふらとそんな気にもなった。お絹の影が彼の頭から消されたのではなかったが、酔っている彼は、なに、かまうものかと大胆に構えた。単にお里の家へ寄って来るだけのことならば、別に子細もない筈だと彼は自分で理屈をこしらえてしまった。勘定をすませて表へ出ると、秋の日はもう暮れ切って、雨戸を半分ひき寄せてある
このあいだの晩お里に教えられた通りに、横町の酒屋の狭い裏へはいると、右側に小さい二階家があって、格子と台所とが列んでいた。林之助はそっと格子をあけると、内では鈴の付いた
「こんな
「それでもよくいらして下さいましたね」
お里は嬉しそうに言った。おふくろは近所に
相手が疑惑そうな顔を見せないので、林之助も腰を落ち着けてゆっくりと話しはじめた。しかしこういう
「降るのに気の毒だね」
「なに、隣りの子に頼みますから」
隣りの女の子に使いをたのんで、お里は鉄瓶の下に炭をついだ。小降りにはなったらしいが、雨はまだしょぼしょぼと降っていた。百万遍の鉦らしいのが雨の中にきれぎれに聞えた。
「秋の雨はなんだか陰気で寂しゅうございます」と、お里は錦絵の花魁を貼ったうしろの壁を見かえりながら言った。
自分はいったい陰気な
話はいよいよ沈んで行った。
うす暗い心持ちでお絹の家を出た林之助は、ここで又こんな滅入った話を聞かされるのは辛かった。彼は陽気に冗談の一つも言って見たかった。店にいる時もおとなしいという評判の娘ではあるが、自分と二人ぎりの場合はいよいよおとなしい、むしろ陰気なくらいに沈んでいるのが、林之助にはなんだか物足らなかった。しかし、いかにおとなしいと言っても、もともとが
そのうちに鮓が来た。お里はすぐに燗の支度をした。自分はちっとも飲めないと言ったが、それでも無理に二、三度は
「どうも済みません」
「なあに、ここの
どこかで
四つ少し前に林之助は帰ったが、
林之助は蒲団の上で、これだけのことをそれからそれへと繰り返して考えた。お里と自分とは、もう切り放すことのできない
「おれは意気地がないな」と、彼は枕をつかんで自分をあざけった。
自分のふるい友達のなかには三人五人の堅気の女をだまして振り捨てた者もあった。吉原の女郎を欺して住み替えさせて、その金で芸者と駈落ちをした者もあった。しかし、自分はゆく先きざきで恋をあさって歩くような人間ではなかった。あとにもさきにもたった一度お絹と恋に落ちて、その
「こうなればお絹を捨てるか、お里にそむくか」
二つに一つに決めてしまわなければ、彼は一日も安心していられないように思われた。両手に桃桜などという洒落れた
それでも彼はやはりその美しい魂に支配されていた。どちらかの女に対して自分の罪を詫びて、あきらかに一人を捨てて一人を取ろうと決心した。しかも、これまでの行きがかりから言うと、彼はどうしてもお絹を裏切ることはできなかった。お絹の呪いも怖ろしかった。
「なぜ今夜お里を訪ねたろう」
どう思い直しても、彼は今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。彼の涙は枕の上にはらはらとこぼれた。
彼はまぼろしのように眼の前にあらわれて来たお里のおとなしやかな顔にむかって、手をあわせて幾たびか詫びた。
彼を安らかに眠らすまいとするように、雨は大きい屋根の瓦を夜通し流れて、軒の
十一
それから三日ばかりは御用
往来の人はみな
柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり
「やあ。どこへ」と、二人は立ち停まった。今夜の発句の話なども出た。弥太郎はこれから両国へ遊びに行こうと言った。ゆくさきは列び茶屋に決まっているので、林之助はすこし躊躇した。お里に逢うのはなんだか気が咎めるようであった。
「え、お里の顔でも見に行こうじゃないか」と、弥太郎は言った。「それとも、御用かい」
着流しの林之助は御用に行くとも言われなかった。彼は断わり切れないで一緒に引き摺られてゆくと、不二屋の軒提灯は秋風にゆらめいていた。二人はずっと店へはいって床几に腰をかけると、これも顔なじみのお染という若い女が愛想よく茶を汲んで来たが、茶釜の前にもお里のすがたは見えないので、林之助は一種の失望を感じた。
「きょうはどうしたい、お里は……」と、弥太郎も
「
「おふくろが急病……」と、林之助も驚いた。「さっきまでここにいたくらいじゃあ、ほんとうの急病なんだね」
「ええ。けさまで何ともなかったんだそうですがね。どうしたんでしょう。迎いの人の口ぶりじゃあもういけないらしいんですよ」と、お染も顔をしかめて言った。「その話を聞くと、可哀そうに里ちゃんはわあっと泣き出して……。あの子ふだんから親孝行なんですからね。いよいよいけないとなったら、さぞがっかりするでしょう」
「そりゃあ気の毒だね」
弥太郎もさすがに顔の色を陰らせた。林之助は茶碗を持っている手さきがふるえた。病身とはかねて聞いていたが、現に先月末の花火の晩には近所の百万遍の
「虫が知らすとでも言うんですかしら。里ちゃんはこの二、三日なんだかぼんやりしていて、唯うっとりとうしろの川の水を眺めていたりして、人が声をかけても返事をしないこともあるんですよ。今思うと、やはりこんなことがある
お里がこの二、三日物思わしげに暮らしたのは、母に別れる前兆であったろうか。なんにも知らないお染が
「里ちゃんの家は都合がいいのかね」と、彼は知れ切ったようなことを訊いてみた。
お染も知れ切った事をいうような顔をして、すぐ打ち消すように答えた。
「どうでこういうところへ来ているくらいですもの、都合のいいことがあるもんですか。ほかに頼りになるほどの親類もないそうですから。
聞けば聞くほど林之助の胸は痛くなった。彼は飲んだ茶を吐き出したくなった。
弥太郎もよほど気の毒になったのと、一つはお染に対する
しかし、この位のことでは済むまい。自分はなんとか特別の算段をしてやらなければなるまいと、彼は胸のなかでその
彼はいい加減の口実を作って、弥太郎にわかれてひとまず不二屋を出た。
「どこへ行こう」
少なくも一両の金がほしいと彼は思った。その工面が付かなければ二
「こういう時に人間は
彼はこんな途方もないことまで考えた。そうして、自分でぎょっとしてあとさきを見まわした。彼の足は行くともなしに両国橋を渡りかけていた。橋番の小屋で放し鰻を買って、大川へ流してやっている人があった。林之助はその財布を引ったくって逃げたかった。
「やあ、旦那」
楽屋番の豊吉に不意に声をかけられて、林之助はびっくりしたように立ち停まった。豊吉は楽屋の合い間を見て、お絹さんの家へちょっと見舞いに行って来たと言った。
「お絹さんはどうもよくありませんぜ。なんだかここがひどく
「困ったね」
「あなたもいずれお見舞いでしょうが、まあ、いたわっておあげなせえましよ。お絹さんも可哀そうですよ。そう言っちゃ何ですけれども、楽屋の者なんてみんな不人情ですからね。本気になって世話をしているのは、あのちっぽけなお君という子だけでさあね」
林之助はだまって突っ立っていた。観世物小屋のそうぞうしい鳴物の音も、彼の耳へは響かなかった。豊吉はまたささやいた。
「それから、旦那。まあ当分、不二屋へはいり込むのをお止しなせえましよ。お絹さんはそればかりを苦にしているんですから。ここであんまり心配させると
「なに、この頃はちっとも行きゃあしねえんだ。お辰やお花のおしゃべりが詰まらねえことを言うんだろう」と、林之助はいい加減にごまかしていた。
「ほんとうですぜ。あたしが先きへ死ねば、きっと林さんを迎いに行くって、お絹さんがそう言っていましたぜ」
豊吉は
「まあ、行っていらっしゃい」
楽屋へはいってゆく豊吉のうしろ影を見送って、林之助の足はまた重くなった。お絹に金を借りるのはどうしても義理が悪いように思われた。このまま引っ返そうかとも考えたが、お絹がそれほどの容体ならば直ぐに見舞ってやらねばなるまい。ここまで来てから引っ返すという法はない。金の話は別として、ともかくも顔をみせて来なければ人情がないと思い直して、彼は又まっすぐに路を急いだ。
路地をはいって格子をあけると、お君が出て来た。
「あら、豊さんが引っ返して来たのかと思ったら……。さあ、どうぞ」
お君は急ににこにこして林之助をお絹の枕許へ導いた。お絹は半分死んだようになってうとうとと眠っていた。その寝顔には、このあいだ見たよりも更にげっそりと痩せが見えて、こめかみの骨があらわになっているのも悼ましい病苦の姿をまざまざと描いているので、林之助は思わずほろりとなった。彼はお君にむかって病人の容体をきくと、やはり豊吉の話の通りであった。お絹はときどきに熱が昇って
「君ちゃん」
林之助は小声で彼女を呼んで、次の間の長火鉢の前へ行った。
「それで、お医者はなんと言っているね」
「お医者さまはよっぽど大事にしなけりゃいけないと言っているんです」と、お君は眼をうるませていた。
「そうかい」
林之助は指さきで眼がしらを撫でると、お君はもうしくしくと泣いていた。
「楽屋の者も看病に来てくれるかい。お花もお若も……」
みんな出掛けに一度ずつは見舞いに来てくれるが、
「わたしは主人持ちで、思うように看病にも来ていられないからね。気の毒だけれども、
お君は目を拭きながらうなずいた。そうして、姐さんを起しましょうかと訊いた。
「いや、折角よく寝ているものを無理に起さない方がいい」
二人は黙って火鉢の前に坐っていた。
そのうちにお君は薬鍋を持ち出して来て、火鉢の上で煎じはじめた。林之助は黙って煙草をのみながら、渋団扇で火を煽いでいるお君の小さい手さきを唯ぼんやりと眺めていた。やがて鍋の蓋がごとごとおどると、強い匂いを含んだ薬のけむりが
林之助はことしの秋のわびしさに堪えられなかった。
十二
薬が煎じつまったので、お君はお絹を起しに行った。そっと揺り起されて、お絹は眼をとじたままで訊いた。
「林さん。まだそこにいるの」
林之助はぎょっとして見返った。
「あたし、何だかうつつのように林さんが枕もとにいると思ったけれども、夢だったかしら」と、お絹は言った。
林さんはさっきから来ているとお君が言うと、お絹は初めて眼をあいた。林之助も
「やっぱり来ていたのね。どうもそうらしいと思った」と、お絹はさびしくほほえんだ。「もうお前さん、来てくれやしまいと思ったのに……」
「冗談いっちゃいけない。いつも言うようだが、屋敷の方にも御用が多いので、夜でも昼でも勝手に出るという訳には行かねえからね。このあいだ来た時からきょう初めて外へ出たんだ。誰にきいても判る。そりゃ嘘じゃあねえ。なにしろいつまでも悪くっちゃ困ったものだ。精出して養生しねえよ」
「お前さん、たいへんやさしくなったね」と、お絹はまた笑った。「どうでもう長いことはないんだから、少しはいたわってくれるのもいいのさ」
「病いは気からというぜ。しっかりしてくれ」
林之助はお絹を抱き起すようにして薬を飲ませてやった。そうして、まだ若いからだだから、どんな病気でも養生次第で
しかし今度の病気ばかりは轻易に癒りそうにも思われない。お前さんにほんとうの親切があるならば、屋敷から幾日かの暇を貰うか、それとも一生の暇を取るか、どっちにしても当分はからだをあけて、あたしの枕許へ来ていてくれ。その上でお前さんの看病がとどいて癒れば
「林さん。いやかい」
まぶたは押しつぶしたように落ち窪んでいても、
「よし、よし、判った。しかし武家奉公というものは面倒なもので、親のかたきを探しに出るからといって、きょうが今日すぐに
「
彼女はお君に、もう何どきだと訊いた。さっき八幡鐘の七つを聞いたとお君が言うと、それでは林さんの好きな蒲焼でもあつらえろとお絹は寝ながら指図した。なに、そうはしていられないと林之助は言ったが、さすがに振り切って起ちかねていると、お君はすぐ近所の鰻屋へ駈けて行った。
「林さん、新しい袷なんぞ着て
「むむ、これか」と、林之助は袷の膝をなでた。「そら、いつか話したことがあるだろう。この四月に新しく
「不二屋へ運ぶのが忙がしいから、身のまわりなんぞには手が届かねえのさ」と、お絹は笑った。「御用人さんに二歩借りて、それをどうして返すの」
「都合のいい時に返すのさ。まさか利も取るめえ」と、林之助も笑った。
「おまえさんにも都合のいい時があるのかしら。ちょいと、お前さん。この蒲団の左の下から紙入れを出して頂戴な」
言われた通りに林之助は紙入れを取って渡すと、お絹はそのなかから二歩を出した。
「暇を貰おうという矢先きに、借りなんぞあっちゃ
「だが、こっちも病気で物入りの多いところだろう」と、林之助は手を出しかねて、もじもじしていた。
「なに、こっちは又どうにかなるから」
二歩の
屋敷の用人から二歩借りて、袷や冬物の質請けをしたのは嘘ではなかったが、それは今すぐに返さないでもいい。この二歩があれば、お里の家へも顔出しができる。こう思うと、彼は今直ぐにもここを飛び出したくなった。今まではおちついて腰を据えていた彼も、銀をつかんで急に気が変った。お里のことも急に気にかかって、彼はなんだかそわそわして来た。しかしお君はまだ帰らない、あつらえ物もまだ来ない。殊に銀を貰ってすぐに逃げて帰るのも気が咎めるので、彼はおちつかない心持ちを無理に押し付けて、
やがてお君は帰って来た。どうしてかきょうは注文が立て込んでいるので、鰻の出前はすこし手間が取れると言った。林之助はそれをいいしおに、自分は日が暮れるまでに屋敷へ帰らなければならないから、手間が取れるならばいっそ断わって来てくれと言った。
「飛ぶ鳥はあとを
「それもそうかも知れない」
お絹も別に
「じゃあ、あしたまた来るぜ。君ちゃん、いいかい。頼むよ」
路地を出ると、日はもう暮れかかっていた。お君は路地の口まで送って来て、姐さんの
橋の袂へ来ると、芝居小屋では打出しの太鼓がきこえた。早く閉まった観世物小屋では、表の幟を取り卸しているのもあった。焼いたとうもろこしを横ぐわえにして、なにか大きな声で唄いながら通る
こうしたみだらな夕暮れの混雑に眼なれている林之助は、右も左も見向きもしないで、急ぎ足に橋を渡った。
酒屋の路地へはいって、格子の前に立つと、入口の障子は半ば開かれて、線香の匂いが狭い
案内を乞うと、女の児が出て来た。それはこの間の晩に使いを頼んだ隣りの娘らしかった。
内へあがると、やはり近所の人らしいおかみさんや娘が四、五人ごたごた坐っていて、逆さに立てまわした古い屏風のかげからは線香の煙りがうず巻いて流れていた。その屏風のそばに蒼い顔のお里がしょんぼりと坐っていたが、彼女は
ひる前には隣りのおかみさんが話しに来た。その時までは
林之助はかの二歩を紙につつんで出した。もっとどうにかしたいのだが思うように行かないから、差しあたりはこれで堪忍してくれといった。お里は頂いて、それを隣りのおかみさんに渡した。おかみさんが葬式万端の世話を焼いているらしかった。おかみさんは受取ってすぐに仏前に供えたが、二歩の重みは
ここに長くいてはみんなの邪魔になると、林之助もさとった。どうで周囲に大勢の人がいては、お里と
路地の出口で菓子売りのお此に逢った。お此もこの近所に住んでいるので、これからお里の家へ悔みに行くのだと言っていた。
「旦那さまもお里さんのところへいらしったんですか」と、お此は子細らしく訊いた。
隠すこともできないので、林之助も正直に答えると、お此は危ぶむようにささやいた。
「あなた、お里さんのところへ行くのはお止しなさいましよ。飛んだことが出来ますよ」
このあいだ両国の楽屋で蛇責めに逢ったことを、お此は身ぶるいしながら話した。
「あの時のことを考えると今でもぞっとします。わたしはもうそれぎりあの楽屋へは
林之助も息をつめて聞いていた。
十三
「困った奴だ」
林之助は口のうちで幾たびか罵った。
お此と別れて屋敷へ帰る途中で、彼はお絹を憎むの念が胸いっぱいに溢れ切っていた。彼はお絹があまりに執念ぶかいので憎くなった。罪もないお里をそれほどに苦しめようとするお絹の妬み深い心には、どう考えても同情することが出来なくなった。一種の意地と、一種の江戸っ子かたぎとが彼をあおって、彼は弱いお里をあくまでも庇ってやらなければならない、それが男の役目であるというようにも考えはじめた。
先月までの林之助はともあれ、今の彼はお絹に対してあまり立派な口をきけた義理でもないのであるが、彼はもうそんなことを考えている余裕がなかった。お此を蛇責めにして、さらにお里を蛇責めにしようとするお絹の残酷な復讐手段に対して、彼の胸には強い抵抗心が渦巻いて起った。彼はいっそお絹を殺してしまいたいほどに腹が立った。
また一方から考えても、自分はもうお里を振り捨てることの出来ない破目になって来た。今朝まではなんとかして、お里に詫びて、いっそ綺麗に手を切ろうかとも考えていたのであるが、そのお里の母は死んで、彼女はかねて口癖のように
そんなことを思い悩んで、林之助は今夜も眠られなかった。夜があけると、今朝も拭ったような秋晴れで、となり屋敷の大銀杏の葉が朝日の前に
ゆうべは
彼女はお里の母の
その日は御用があって、林之助はどこへも出られなかった。きょうもきっと来てくれとお君に口説かれたことを思いながらも、彼はどうすることも出来なかった。彼はお絹の怨みを恐れながらも、とうとう両国橋を渡る機会がなかった。あくる日もまた忙がしかった。彼は白金や渋谷の果てまで使いにやられた。この頃は意地の悪いように屋敷の用があるので、彼はすこし
しかし林之助は大小を捨てて町人になろうとは思わなかった。お絹の縁に引かれながらも、手ぶらでいつまでも彼女の厄介になっていたくもなかった。屋敷をやめれば忌でも応でもお絹のふところへ戻らなければならない。朝晩におそろしい蛇の眼と睨み合っていなければならない。林之助は第一にそれを恐れていた。やはり今のように遠く懸け離れていて、そうして時どきに逢っているのが一番無事であると信じていた。
九月八日の
両国の秋はいよいよ深くなって、
霜に染められたかと思う川越芋の紅いのに隣り合って、秋茄子の美しい紫が眼についた。どこの店にも枝豆がたくさん積んであるので、やがて十三夜の近づくのが知られた。これから
「あら、いらっしゃい」
格子をあけると、お君はすぐに駈け出して来た。うす暗いお絹の枕もとには楽屋番の豊吉も坐っていた。前芸のお若もしょんぼりと坐っていた。いつも留守番を頼むという隣りのお婆さんもぼんやりと
「おや、いらっしゃい」と、豊吉は振り返ってまず声をかけた。そうして、すぐに入口へ起って来た。
「旦那。いけませんぜ。あれほど私が言って置いたのに……。あなたはどうも不実ですぜ。きょうはよっぽどお迎いに出ようと思っていたんですが……」と、彼は林之助をたしなめるように言った。
「いや、なにしろ御用が忙がしいんでどうもこうもならねえ。あしたは節句という忙がしいなかを、きょうはようよう抜け出して来たくらいなんだから、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は
豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう
もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、
彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半ばかりで病人の枕もとを起った。
帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。どうで死ぬもんだからなんて薄情なことはしっこなしですぜ」
林之助はだまってうなずいた。
「不二屋のお里のおふくろが死んだそうですね」と、豊吉はまた言った。
どこか急所をえぐられたように、林之助ははっと顔色を変えて、すぐには返事が出来なかった。
十四
林之助が帰ると、やがて
お絹の枕もとにはお君が一人さびしそうに坐っていたが、ことし十五で外の恋しい彼女は、やがて病人の寝息をうかがって、音のしないように格子をあけて、そこから半身を出して何を見るともなしに表を覗くと、長い往来は露地の幅だけに明るく見えて、そこにはいろいろの秋の姿をした人が廻り燈籠のように通った。
「君ちゃん、君ちゃん。いないの」
「はい」
はっきりと返事をして、お君はあたふたと内へ駈け込むと、お絹はいつか眼を醒ましていて、薬をのませてくれと言った。まだ少し早いと思ったが、お君はすぐに薬鍋を温めにかかった。
「君ちゃん。あたし少しお前に言って置きたいこともあり、頼んで置きたいこともあるんだよ」と、お絹は案外はっきり言った。
これほどしっかりと口が利けるようならば、姐さんも少しよくなったのかしらと、お君はなんだか頼もしいようにも思われた。
「君ちゃん、お前にはいろいろ世話になったけれども、今度はあたしももういけないよ。あたしも覚悟しているよ」
お君は涙ぐんで聞いていた。
「そこで、あたしが頼むことというのは、お前も大抵察しているだろうけれど……。向柳原の林さん、あの人はずいぶん薄情だと思うよ」
「あら、林さんはもう少しさっきまで来ていましたよ」と、お君は慌てて打ち消すように言った。
「そう」と、お絹はさびしく笑った。「そりゃあよんどころなしの義理づくさ。あたし、どう考えてもあの人は人情がないと思う」
一体、ここの
お君はやはり涙ぐんで聞いていた。
「お前は子供でも蛇という味方があるんだからね。大人だって怖いことはないよ。あたしの魂も蛇に乗りうつって、きっとお前の加勢をしてあげるからね。いいかい」
もし林之助に見せたら気絶するかも知れないと思われるほどに、お絹のくぼんだ眼はいよいよ物すごく光った。糸のように痩せ細った顔と、この物すごい眼をじっと見つめていると、お絹が蛇か、蛇がお絹か、お君にも判らないほどに怖ろしかった。お絹は枕もとへ蛇の箱を持って来いと言った。
「君ちゃん。神棚の
箱はお絹の枕もとに運び出された。彼女はお君にかかえられて蒲団の上に起き直って、自分の尖った膝の上にその箱をのせて貰った。いつものように箱をとんとんと軽く叩くと、一匹の青い蛇の頭が箱の穴からぬるぬると現われた。お絹は小さい
「お前、あたしを忘れちゃいけないよ。もういいからお帰り」
お絹に頭を撫でられて、蛇はおとなしく首を引っ込めた。彼女が再び箱をたたくと、待ちかねていたように第二の青い蛇が穴から首を出した。お絹はかれにも神酒と米をあたえた。そうして、同じようにあたしを忘れるなと言って聞かせた。かれが穴に隠れると更に第三の青い蛇が頭をあらわして、これもお絹の手から神酒と米とを授けられて、嬉しそうに首を垂れていた。彼女はその蛇の首をつかんで穴からずるずるとひき出すと、蛇は二つに裂けた紅い舌を
小声で唄いながら、お絹は片手で膝をたたいて拍子を取ると、蛇はなめらかな
今じゃ銚子の風もいや……
唄の声がふるえながら消えると同時に、彼女は尾の先きをつかんで、ずるずると手首から引きほどかれた。
「君ちゃん。お前、知っているだろう。こうして、こうするんだよ」
尾をつかまれた蛇は縄をわがねたように円を描いて、空を二つ三つ舞ったかと思うと、その持ち主の細い頸にくるくるとまき付いた。お絹はお君を見返ってにやりと笑った。お君は身を固くしてじっと見つめていた。
「さあ、いいからお帰り」
第三の蛇もお絹の頸を離れて、もとの箱の穴へ追いやられた。
「あたしが死んだらば、お前もやっぱりこの商売になるかえ」と、お絹は訊いた。
「あたし、
「そうとも限らない。お若だって巳年じゃないけれど……」と、お絹は考えていた。「だが、まあ、止した方がよかろうよ。こんな商売するもんじゃない。あたしだって、こんな商売でなけりゃあ男に愛想をつかされなかったかも知れない。だけれども、あたしがいなくなると、おまえは
お君は両袖で顔を掩いながら
「おっかさんが違っているんだからね。あたしももう少し達者でいれば、お前の面倒を見てあげられたんだけど……。おたがいに運が悪いんだから仕様がない」
お絹は崩れるように蒲団の上に俯伏すと、お君は声を立てて泣き出した。
「姐さん。
「そりゃああたしだって死にたかあないけど……。あたし、ほんとうに死に切れないけど……。いいかい。今のことはお前に頼んだよ。あたしの着物でも
「はい」と、お君は泣きながらうなずいた。
きょうは風のぐあいか、東両国の観世物小屋の
日が暮れると、豊吉をさきに立てて、お若やお花やお辰がぞろぞろと見舞いに来た。お花とお辰はさきへ帰った。豊吉とお若はあとに残って、お君と三人で薄暗い行燈のもとに黙って坐っていた。
さっきから幾たびも風鈴そば屋の声を聞くので、この頃の夜もだんだんに長くなったのが思われた。綿入れの節句もあしたに迫って、その
「さびしいね」と、お若は襟をかき合わせた。
「さびしいなあ」と、豊吉も腕を組んだ。
大川の水の音もここまで聞えるほどに静かな夜であった。お絹は急に夢から醒めたようにもがいて、再び蛇ののたくるように蒲団の上を這いまわった。彼女は林之助の名を二度呼びつづけた。三度目にお里の名を呼んだ。
十五
豊吉が向柳原の屋敷へあわただしく駈け付けたのは、その夜の五つ半(午後九時)ごろであった。
「お絹さんはとうとういけませんでした」
「ふむ。いつ頃……」と、林之助もさすがに顔色を変えた。
「たった今です。ともかくもすぐ来ておくんなさい。みんなも待っていますから」
林之助は行かれないと気の毒そうに言った。なにぶんにも主人はあした早朝の登城であるから、自分がこれから屋敷を明けるわけにはいかないと断わった。豊吉は不平らしくぐずぐず言っていたが、林之助はまったくどうしても行くことが出来ないのであった。彼はいろいろに訳をいって、ようように豊吉をなだめて帰した。
「薄情ですねえ。お絹さんが化けて出ますぜ」と、豊吉は
なんと言われても林之助は仕方がなかった。豊吉ばかりでなく、きびしい屋敷の
「おれがお絹を殺したわけではない」と、彼は自分で自分を弁護した。死に目に会えなかったのも自分の罪ではない、今夜行かないのも自分の薄情からではないと、彼はいろいろの理屈をかんがえて
彼は今にもここへお絹のおそろしい眼が現われて来はしまいかと恐れられた。お絹に別れたことも悲しかった。うるさいとか執念ぶかいとか思いながらも、彼女と自分とのあいだには切ることのできない
お経の文句は何も知らない彼も、今夜は仏壇代りの机にお絹の俗名をかいた紙片を飾って、それにむかって一心に南無阿弥陀仏と念じた。ときどきに部屋の障子に女の髪の毛がさらさらとさわるような音が耳について、彼は
屋敷を出られない彼は今夜はここで通夜をするつもりで、明けの
明くる日は主人が登城の当日で、林之助は何を考えている
このあいだの二歩がまだ返してないので、林之助は又もや用人に頼むことも出来なかった。屋敷じゅうにはほかに融通の付きそうな人物は見付けられなかった。彼は苦しまぎれに門番の
門番は素直に貸してくれないのを林之助はいろいろに頼んだ。それでも彼は
林之助も根負けがして、仕方がなしに屋敷を出たが、どう考えても空手では行かれなかった。彼は友達の梶田弥太郎のところへ行って頼もうと思ったが、これから訪ねて行っても果たして家に居るかどうだか判らなかった。居たところできっとその銀が出来るかどうかも疑問であった。そんなことに暇取っているうちに、葬いが出てしまっては何にもならないと、林之助はむやみに気が
「ええ、もう仕方がない」
彼は思い切って馴染みの質屋へかけ込んで、大小を投げだして銀を借りた。武士の大小であるから
あまりの
八幡鐘が夕六つを
引っ返して内へはいると、隣りのおばあさんが留守番役にひとり坐っていた。林之助は彼女からお絹の臨終の有様などを詳しく聞いた。お絹が最後にお里の名を呼んだのを知って、彼はまたぞっとした。
寺は深川で、見送りの人たちも四つ(十時)前にはみな帰って来た。なぜか知らないが、みな林之助に対して無愛想で、彼に悔みの口上をいう者は一人もいなかった。豊吉やお若もわきを向いていてほとんど挨拶もしないばかりか、豊吉は時どき当てこすりらしい
そのうちに小屋主は気がついて林之助に注意した。
「失礼でございますが、旦那様、お腰の物は……。こんな混雑の時でございますから、もし間違いでもありますといけません」
林之助ははっと赤面した。まさか大勢の前で大小を質に入れて来たとは言えなかった。返事に困っておどおどしていると、豊吉は薄あばたの顔に三角の眼をひからせた。
「なるほど旦那は丸腰で……。へえ、もうきょうかぎりお屋敷の方はおやめになったんでごぜえますかえ。ははあ、それじゃあここの姐さんがいなくなったんで、おおびらでお里の方へ引き取られるようなことで……。なんでもお里のおふくろの死んだ時にゃあ大層に肩を入れてお世話をなすってやったそうで……。へえ、みんな知っていますぜ」
彼は憎々しくせせら笑った。丸腰を見とがめられて赤面しているところへ、又もやこんな忌味を言われて、林之助はむっとした。
「お里のおふくろが死んだ時に顔を出したのがなんで悪い。顔を出そうと出すまいと俺の勝手だ。貴様たちにおれの
豊吉も負けずに何か言おうとするのを小屋主がおさえた。ほかの者もなだめた。ともかくも武士の林之助を相手にして喧嘩をしては面倒だと思ったらしい。
それはそれで済んだが、四方八方から意地のわるい眼で睨まれているようで、林之助はなにぶんにも居ごこちが悪いので、ろくろく挨拶もせずにふいと表へ出てしまった。彼の腰のまわりは寂しかった。そのうしろ姿を見送って、内ではくすくす笑う声も洩れきこえた。
「けしからん奴らだ」
林之助は腹が立って堪まらなかった。彼はふところにまだ一両二歩の
「このあいだもここで飲んで、それからお里の
彼は丸腰で屋敷の門をくぐれないことを考えた。もう今頃からどこへ行っても、大小をうけ出す銀の才覚もできそうもない。さりとてお絹の家へ引っ返す気にもなれないので、林之助は行くさきに迷った。酔いも手伝って彼はもう
めずらしく霧の深い夜で、林之助は暗い海の底を泳いでゆくように感じた。
十三夜も過ぎた。十五日は神田祭りで賑わった。
林之助はお里と一緒に祭りを見物した。彼の大小はお里の着物や帯と入れ替えにして、無事に質屋の
祭りに騒ぎ疲れた人たちは、さらに新しい騒ぎの種を発見して驚き騒いだ。
祭りのあくる朝、お里の家がいつまでも戸をあけないのを不思議に思って、近所の者が戸をこじあけて窺うと、お里の寝すがたは
それと同じ日に、両国の秋の水にお君の小さい死骸が浮きあがった。彼女もふところに一匹の青い蛇を抱いていた。