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皆さんは、自分の母親を呼ぶときの呼称は何ですか。「おかあさん」でしょうか。「おふくろ」でしょうか。「ママ」とか「マミー」のかたもいますか?「おかあさん」が一番多いでしょうかね。この「おかあさん」という呼称ですが、今では普通ですが、時代劇とか大河ドラマでは、聞かないですよね。江や茶々が「お市」に対して「おかあさん~!!」なんて言っていませんでしたよね。確か「母上」だったかと・・・。
大家都是怎么称呼自己母亲的呢?是おかあさん(妈妈),还是おふくろ(妈、娘)?是不是也有人会叫ママ(妈妈)或者マミー(妈咪)呢?我们用的最多的可能还是おかあさん这个词。虽说这称呼在当今社会特别普遍,但在时期剧或者大河剧里听不到吧。阿江、茶茶她们没有对着阿市夫人喊妈妈~!!对吧。我记得应当是母亲大人……
お母さん(おかあさん)
江戸時代以前の武家などの上流階級の妻(奥方)は、寝殿造りの「キタノカタ(北の方角)」の対屋に住んでいたため、方角を除いた形で「オカタサマ(御方様)」と呼ばれていました。この「オカタサマ」という呼称は他人の奥さんに対するものでしたが、夫が自分の妻に対して「オ」を除いて「カタサマ」と呼ぶようになり、それを子どもが真似て「カカサマ」「カアチャン」「カカ」「オッカア」となったという説があります。
关于おかあさん的语源有这么一说——在江户时期前,武家等上流阶层的妻子(夫人)住在寝殿造宅邸キタノカタ(北面)的配屋中,由此人们将キタノカタ 去掉方位词后尊称这些夫人们为オカタサマ(御方様)。这种称呼原是用在别家夫人身上的,男主人去掉了词首的オ、用カタサマ来称呼自己的妻子,孩子们则开始模拟这样的说法,于是有了カカサマ、カアチャン、カカ、オッカア这些称呼。
注:寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の都の高位貴族住宅の様式。寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、庭には太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿(つりどの)を設けた。
江戸時代末期になると、武家では「オカアサマ」「カカサマ」、庶民では「オッカサン」「オッカア」が使われていたそうです。明治時代になり、身分制度が廃されると、母親に対する呼称を学校教育により統一させる動きが生まれました。当時の『国定教科書』には「オカアサン、オハヤウゴザイマス」との記述があり、国策として「オカアサン」という呼称を広めようとしました。ただ、当初は、元武家の家庭からは「オカアサマ」よりも丁寧さに欠け、庶民の家庭からは「オッカサン」よりも馴染みが薄いなどとの事から、受け入れられるまでには、時間がかかったそうです。ただ、学校での教育も時間が経つにつれ、「オカアサン」が一般的に受け入れられるようになり、今に至っています。
据说到了江户末期,武家社会一直称呼母亲为オカアサマ、カカサマ,而庶民阶层则运用オッカサン、オッカア。进入明治时期后,等级制度被废除,社会上开始提倡通过学校教育统一母亲称呼。当时的《国定教科书》中记载着这样一句话,妈妈(オカアサン),早上好,推广オカアサン这一称呼被作为国策开始施行。但据说在一开始,这称呼对于原为武家的家庭来说,没有オカアサマ来得恭敬,而对于庶民家庭来说,它又比オッカサン来得陌生,凡此等等,オカアサン这一称呼花了相当长一段工夫才被人们所接受。不过伴着工夫的推移,学校教育的影响也起了作用,于是这种称呼逐渐固定下来,并沿用至今。
「お母さん」は作られた言葉だったんですねえ。もし、教科書に「オッカアオハヤウゴザイマス」とあったら、私も「オッカア腹減った」なんて言っていたんですよね。日本昔ばなしみたいですね。
原来お母さん是个造词啊。如果当时教科书上写的是娘(オッカア) 早上好,那我挂嘴上的可不就变成娘 我饿了嘛。这听起来倒像是日本民间故事了。
お袋(オフクロ)
男性が自分の母親の呼称として「お袋」といいますが、1603年の「日葡辞典」では、女性も运用するとあるんですよ。それが、現代では男性語となったわけです。
如今男性会用お袋来称呼自己的母亲,但据1603年的《日葡辞典》记载,女性也会运用该称呼。而到了现代,这个词变成了男性用语。
さて、その「お袋」という語の語源ですが、諸説あり、どれももっともなものばかりです。
说起来,关于お袋的语源其实版本很多,且无论哪个听起来都颇有道理。
①まず、鎌倉時代後期にさかのぼります。母親は当時袋に入れて家庭の金銭、財産を管理していたことから「お袋」と呼ばれるようになった説。
②江戸時代、女性の胎盤や子宮などを「フクロ」と呼んでいたからという説。
③食事を作ることから「胃袋」からという説。
④子どもが母親の懐(フトコロ)で育つということから、それが転じて、フトコロ→フクロになったという説。
⑤豊臣秀吉の正室「おね」が「北政所」と呼ばれたように、奥さんが北の方角の屋敷に住んだことから、「お北堂(オホクドウ」が転じて「オフクロ」となった説。
①首先要追溯到镰仓后期。据说当时的母亲把家里的财产装入袋(フクロ)中管理,由此延伸出了お袋这个称呼。
②有说法认为,由于在江户时期,人们把女性的胎盘以及子宫等称作是フクロ,所以得此名。
③也有说法认为,母亲负责家庭饮食,所以从胃(イブクロ)一词延伸而来变成了お袋。
④还有说法认为,孩子是在母亲怀中(フトコロ)长大的,因此フトコロ一词通过变形成了フクロ。
⑤另有一说指出,正如人们称呼丰臣秀吉的正室阿宁为北政所那样,阿宁夫人当时住在北面宅院中,之后由お北堂(指北侧居室)一词延伸开来,有了オフクロ这一称呼。
こんなにも説があるんですね。何気ない日常の言葉でも、使われ方の歴史的変遷や、由来、語源の説の多さからみると奥深いですよね。みなさんは、何番だと思いますか?
原来有如此多的说法啊。平时无意间用着的这些日常用语,若从它们用法的历史变迁、由来及诸多语源来看其实颇为高深嘛。大家相信哪种说法呢?