子供がカワイイのはなぜか
孩子为什么可爱?
子供を育てるのは心身ともに結構キツくて「かわいい、かわいい」だけですむようなものではないが、でも基本的に子供というのはかわいいものである。子供がかわいいのはなぜだろうか。「かわいい」というのは「美しい」と「面白い」の中間くらいの感覚だ。美は無意識的情報のシンプルな表現であり、面白いことは無意識的情報の解読である。子供は無意識的情報を表現し、解読しようとしているからかわいいのである。
抚养孩子令人身心疲劳,可不像说几句可爱这么简朴,但总的来说,孩子是可爱的。孩子为什么可爱呢?可爱差不多介于幸福和有趣中间。美是无意识的信息的简朴表现,有趣是无意识的信息的解读。因为孩子试图表现和解读无意识的信息,所以可爱。
子供は自分の感覚に言葉がついていかない。また、意志に動作もついていかない。子供は感覚や意志は「いっちょまえ」だが、言葉や動作による表現能力がまだ充分身に付いていないのである。だから、子供は何をやるにしても精一杯だ。ヨチヨチ歩きにもカタコトのおしゃべりにもなぐり描きにも全身全霊を込めている。子供が表現しようとする自分の感覚や意志に対して、子供の表現能力は小さい。逆に、子供の表現に込められた暗黙の情報量は、表現されている情報よりもずっと大きいのである。
孩子的语言尚不能表达自己的感觉。动作也不能按照自己的意志。小孩的感觉和意志虽然已经成型,却还没有充分把握依赖语言和动作的表现能力。因此,小孩不管干什么都是全力以赴的。无论是东倒西歪的走路,还是不完整的说话,抑或胡乱涂鸦,都是全神贯注的。相对于小孩子想要表现的感觉和意志,他们的表现能力还太小。相反,小孩的表现中所蕴含的暗默的信息量则比表现出来的信息量要大得多。
考えてみれば、大人だって同じである。自分の感覚や意志を充分に表現できるほどの表現能力を持った人はなかなかいない。では、普通の大人がかわいくないのはなぜかというと、大人はあまり精一杯何かを表現しようとはしないからである。何かを精一杯表現しようとすると非意識的な部分が表現されて面白くなるのだが、多くの大人は自分の表現力の範囲のことしか表現しようとしない。自分の表現が今のままで充分だと思っているからだ。つまり、大人は表現を諦めているのだ。大人は諦めてしまっているからかわいくない。子供は諦めていない、つまりポジティブだからかわいいのだともいえる。
如果思考一下就会发现,大人其实也一样。很少有人拥有可以充分表现自己感觉和意志的表现力。那么,一般的大人为什么不可爱呢?因为大人不太会竭尽所能的去表现。有趣是因为努力想要表现什么这种非意识的部分表现了出来,然而多数大人都只会去表现自己表现力范围内的。因为大人觉得自己像现在这样表现就充足了。换句话说,大人放弃了表现。因为大人放弃了,所以不可爱。因为孩子没有放弃,或者可以说因为这份积极,所以可爱。
でもまあ、大人はかわいいなどと言われなくてもいいという気もするし、大人が変に精一杯やると他人に疑惑がかかったりもする。そこが子供とは違う。子供は精一杯やるからかわいいのだが、同じことをそのまま大人がやろうとすると無理がある。子供が精一杯やっても他人に及ぼす疑惑が小さかったり、誰かがちゃんと後始末をするからいいが、大人はそうはいかない。何かを精一杯やって疑惑かけっぱなしだったら大人とは言えないし、他人への疑惑とか後始末のことを計算しながらやっていたのでは、精一杯さが失われてかわいくなくなってしまう。
当然大人也许会说,不被说成可爱也没什么,而且有时分大人如果不恰当的想努力去表现,还可能给他人带来麻烦。这是和小孩不同的。小孩因为努力而可爱,如果大人要用同样的精力去做同样的事情,就不太现实了。小孩使出浑身解数也只能给人带来很少的麻烦,有人帮助善后就没问题,大人却不行。如果因为竭力去做某事而给别人造成麻烦就不管了,就不能说是大人,而且大人会计算给别人带来的麻烦及后果,所以不能全力以赴 ,因而也就不可爱了。
「何も考えずに精一杯表現して、他人に疑惑をかけっぱなし」では大人とはいえないから、大人がかわいいということはありえないのである。大人が何かを精一杯やるためには、どこか遠くへ行ってひとりでやるか、他人に疑惑がかかりにくい表現方法を見つける必要がある。つまり、大人は自分のための表現の場を探さなくてはならない。それができれば、その大人は「かわいい」じゃなくて「魅力的」になるはずだ。
因为如果竭力去做某事而给别人造成麻烦就不管了以不能称其为大人,所以大人不可能会可爱。大人如果想全力以赴做一件事,要么去很远的地方一个人做,要么就得找到不给别人带来麻烦的表现方法。也就是说大人必须给自己找表现的场合。如果做到这点,那个大人就不是可爱了,而是有魅力。