道隆の死後,その子伊周、隆家が失脚し、定子の後宮が衰微していくなかで、反対勢力の道長方とみられたこともあった。
長保2年(1000年)の定子没後は、その遺児脩子内親王に仕えたり、摂津守藤原棟世と結婚し、小馬命婦を生んだりしたらしい。晩年は零落して地方に住んでいたという逸話が『無名草子』や『古事談』などにあるが、実際は父の住んでいた月輪(京都東南の郊外)で暮らしたとされる。
歌集『清少納言集』には日常生活的な詠歌が多く、機知に長けた表現の即興的詠風である。その歌風には古今集風の詠歌をする曾祖父と、即興的詠歌をする父との歌才を直接に受け継いだ面がある。しかし、二人の影響は、詠歌よりも『枕草子』の表現に結実している。
『紫式部日記』には「さかしだち、真名書きちらして侍るほども,よく見れば,まだいとたへぬこと多かり(賢ぶって学才をひけらかすけれども、浅薄なものでしかない)」と,厳しい批評があるが、むしろ臨機応変な対応が要求された後宮で、鋭敏な感性と常識的教養に裏打ちされた知識と即興的行動が周囲の人々を感嘆させた。また,周りがそれを歓迎したことなどが『枕草子』成立の基盤となっている。
このように『枕草子』は、宮廷文化のなかで,中関白家の教養ある環境と清少納言の感性,表現力とから生まれたものであるといえる。「春はあけぼの」などそれまで和歌には詠まれなかった題材も,『枕草子』では新たな美的評価が与えられるなど,清少納言の文学的貢献は大きい。