「君、
如何だ、近頃は不思議が無いか」
私の友人は、よく私にこういうて笑うが、私には
如何してもそれが冗談として
打消されない、
矢張何か一種の奥秘作用としか思われないのである、
如何いうものか吉兆の方は無い――
尤も私の
今日までの境遇上からでもあろうが――が奇妙に凶事に関しては、事件の大小を論せず、必ず自分には
前報がある、遅いのは三四日
前、早いのは一年も二年も以前にちゃんと解る、
如何して知れるというと、
即ち自分の頭の真上で何か
響があるのだ、それにまた奇妙なのは、事件が大きければ大きいほど、
響も大きいといった風で、
瑣細な凶事が
起る時などは、
丸で何か爪の先で
爬く様な微かな音がする、他人がもし
傍に
居ればその人にも聞えるそうだ、私はこういう仕事をしているから、もしそういう
響を聞けば、
直に家人は
勿論、門弟一同に深く注意を与えて、
前以て
種々予防を
為る、幸いそれで何も起らない場合もあるが、多くは
何処か眼の届かなかった
処とか、
如何しても避けられぬ事、例えば
他人から預っておいた彫刻品が、気候の
為めに
欠損が出来たとかいう様な、
人力では、
如何にも
致方の無い事が起るのである、この
談をすると、よく友人
輩は
一口に「君、それは鼠だろう」と
貶してしまう、
成程鼠の
居るべき
処なら鼠の
所業かと
合点もするが、鼠の
居るべからざる
処でも、
往々にして聞くのだ、私は
他人の家へ
談話に行っていて、それを聞いた時もあるので、私は家人に「
御宅では、こんなに昼間鼠が騒ぎますか」と訊ねて「いいえ、そんな事はありません」と云う様なことを聞いた事も
度々ある、
仮令、それが鼠としても、私の身辺をそう始終鼠が附いて廻るというのも、一つの不思議ではなかろうか、
兎に
角この事は、自分が十七八の少年時代から、
今日までも
尚経験しているのであるから、
如何しても自分には偶然の出来事として
看過することは出来ない、これは一つ哲学者の一考を
煩わしたいものである。