百戦危ふからざらんがためには、敵を知ると同時に己れを知らなければならぬのであるから、われわれが自分自身を識るといふことも、畢竟わが民族の発展を可能ならしめる素質とその運用について考慮をめぐらす基礎にしようといふ以外に目的はないのである。
そこで、私は、個人の場合なら、他人が何と云はうと意に介しないといふ行き方を好むものであるが、事、国に関する限り、他処の目がわれわれを何と観てゐるかを大いに注意せざるを得ない。
故意に事実を枉げてわれわれを誣ふる言は固より問題とするに足らぬ。また、多分の衒ひと先入見を交へた批評は、たとへそれが痛いところを突いたつもりでも、われわれにとつて、もはや、ありがたい「参考」にはならぬ。その意味で、この書物の編輯には、適切な選択が加へられ、時局下の出版として、いい勘がはたらかしてあることに敬服するものである。
但し、日本並びに日本人礼讃のすべてのくだりを、われわれはうつかりいい気持で読み過してはならぬと思ふ。なぜなら、たとへ無意識にせよ、そこにこそ、寧ろ、現在のわれわれに対する痛烈な警告と皮肉とが含まれてゐないことはないのだから。わかりきつたことのやうであるが、これだけのことはどうしても云ひ添へておきたい。
昭和十七年五月