▲黄瓜
松島の村から東へ海について行く。此れは
仝三十日
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草の露がまだ乾かぬうちから暑くなつた。宮戸島の宿を立つて東名の濱へもどる一錢の渡しまで來ると干潮で水が特别に淺くなつて見える。草鞋も脚絆もとつて危ぶみながら徒渉して見ると水は漸く膝のあたりまでしかなかつた。徒渉して見たのが何となく嬉しかつた。昨日の渡守は今白帆を揚げて沖へ出て行く所である。渡しは舟の必要もなくなつたので漁でもしようといふのであらう。弓なりの砂濱が遙かにつゞいて居る。白泡のさし引く汀を行くと草鞋の底から足袋のうらがしめつて心持がよい。だん/\行くとそこにもこゝにも東海美人が打ちあがつて居る。東海美人といふと何だか洒落れて居るが合せ目に毛が生えた滑稽な貝である。五寸もあるのが目の前に轉がつて居る。余は嘗て蛤位の大きさより外は知らなかつたので餘り珍しく思つたから笠も蓙もほうつて波打際をあさつた。大きいのがあれば曩に拾つた小さいのは棄てゝ濱一杯にあさつた。見返ると笠も※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、334-6]も遙かの遠くになつて居た。遠くといへば沖はぼんやり薄霧がなびいて居る。貝は手拭の兩端へしつかり括つて手に提げた。
砂濱の盡きる所が松林で、松林を出ると野蒜である。野蒜から石の卷街道へ出る積で或小村へ來ると今の東海美人は毒だといはれたので惜しかつたが棄てゝしまつた。婆さんが笊へ玉蜀黍を五六本入れて提げて來た。それは生かと聞いたら茹でたので直ぐにたべられるのだから買つてくれといつた。そんなら買はうといつたら婆さんは路傍の民家の淺い井戸で余の砂だらけの手拭を洗つて其玉蜀黍を括つてくれた。馬の齒のやうな玉蜀黍である。
仝三十一日
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鮎川の港からだら/\と上つて勾配の急な坂をおりる。杉の木の間を出ると茶店がある。茶店の前を行き過ぎやうとすると女房があとから呼びかけてお山へ渡るなら草鞋を買うて鹿の土産を持つて行けといつた。此れはお山の砂を草鞋へつけて來ることは昔から禁じてあるので島へ渡るものは皆新しい草鞋を穿いて、もどりの船に乘る時にはぬぎ捨てる筈だ相である。鹿の土産といふのは小さな煎餅の括つたのである。渚へおりると船頭小屋には四五人で榾火を焚いて居る。客が集らねば船は出さないといつて一向に取り合はぬ。小船が一艘動搖しつゝある。雨が降つて來た。突兀たる岸の巖には波がだん/\強く打ちつけて小船が更に動搖する。雨が大粒になつた。幻の如く見えた金華山は復た雲深く隱れて裾だけが短く表はれた。山の裾はなつかしい程近い。桐油を着た道者がぞろ/\と余の後からおりて來た。各自に背中を高くして小荷物を背負つて居る。一行の饒舌るのを聞いて船頭のうちの老人が一行のものを米澤ぢやないかといつた。米澤の山の中だといつたので言葉でどこのものでも分ると老人は頗る骄傲である。道者が來ても船はまだ出さうともせぬ。海がだん/\惡くなり相なので何故出さないのだといふと此日の渡しは此れ限りなので金華山から鮎川へ酒買に渡つたものが戻るまで待つて居るのだといふのである。鮎川に二人で酒を飮んでるのがあつたがあれなら迚ても今日のうちには歸り相はないと道者の一人がいつた。遂には船頭も待ちあぐんで一人が南京米の袋をかぶつて出て行つた。所がそれも沙汰がない。屹度あいつも引つ掛つたに違ひない。呑氣なにも程があるといつて道者等が頻りに呟いて居る。幾ら待つても島の酒買は來ないのでやつとのことで船が漕ぎ出された。三人が艪を押して舳の一人が櫂をとる。巉巖に添うて船が進む。鹿渡しの岬に近づくと波は澎湃として船が思ひ切つて搖れる。岬に打ちつける波は花崗岩の如き白い柱を立てる。北方に開けた海上には江の島列島が大小相並んで狹い瀬戸の間から見える。列島は彼の穗に隱れては復あらはれる。桐油を頭からかぶつて余と向き合ひになつてた男は目がどろつとしてさつきから下唇が垂れた儘であつたが遂に桐油でぐるつと顏をくるんで轉がつてしまつた。他の道者も顏が眞蒼になつて小縁へしがみついた儘反吐をついて居る。老人の押して居た艪は艪べそが外れた。老人は狼狽して嵌めやうとしたが船の動搖が激しいので幾らあせつても嵌らぬ。止めろ/\いゝや/\と兩肩からうんと力を入れた男が聲にも力が籠つて叱りつけるやうにいつた。老人は極りわるげに船の底に蹲つた。雲が一方からだん/\に禿げると三角に握つた握飯のやうな金華山が頭から押へつけるやうに聳えて居る。中腹の神社から下には鋏で梢を刈り込んだやうな木立が青い芝の間に鹽梅されて庭園の如く見える。常盤木の茂盛した山上には綿打ち弓から飛ぶ綿のやうな雲がちぎれて居る。船が岸へつくと道者は一同に漸く生き返つたといふ鹽梅で「船ぢや
雨はしと/\として深更までもやまぬ。厠へ立つたら目の前をひらりと飛ぶものがあつた。驚いて見ると鹿である。手を出したら鹿は指のさきへ鼻づらをこすりつけた。
九月一日
▲猿
社務所から出た一行十人ばかり白衣の先達に案内されて金華山を登る。坂が極めて峻しい。曉の霧がひや/\と梢を渡つて雨がはら/\とかゝる。老樹の鬱然として濕つぽい間を行くので深山のやうな淋しい心持がする。忽ち後の方で猿々と呶鳴るものがあつたので振りかへると一行のうちの三四人が立ちどまつて梢を仰いで居る。余も急いでおりて行つて見ると五六匹の猿が樅の喬木に枝移りをして居る所であつた。猿はゆさ/\と枝を搖しながら四つ足を立てゝこちらを見おろして居る。赤い顏がほのかに見える。余は猿の樹に居るのを見たのは此がはじめてゞある。からかつても見たい樣な氣もした。一行のものは皆樹の下へ集つて口々にオンツアマ、オンツアマと呶鳴つて手を叩いたり樹を搖ぶる眞似をしたりして騷いだけれど彼等は一向平氣で枝をゆさ/\と搖して居る。猿といふものは何處で見ても剽輕なものである。道者の一行が騷いで居るうちに先達は一人で行つてしまつたかして後姿も見えなくなつた。ばら/\と先達の後を追ひ掛けながら道者の一人がいふのを聞くと、此前に來た時は猿が丁度栗を搖り落した所へ通りかゝつたのでみんな拾つてしまつたら枝から糞をかけられたといふのであつた。
▲烏
山巓の小さな社の
▲鹿の糞
霧の吹きつけるなかを山蔭へおりる。やつぱり樹木が深くて坂が急である。だん/\おりて行くうちに霧が薄らいで枯れた梢の間から空が朗かに見え出した。又誰か後の方で鹿々と呶鳴つた。あれ/\と一人が指して居る方を見たら其時はピオウと鳴いた聲ばかりで鹿は見えなかつた。ピオウと復た鳴いた時は聲が遙かに遠くなつて、三聲鳴いた時はやつと聞き取れる程であつた。
深い樹立を出ると疎らな赤松が見え出して窪んだ草原のやうな所になつた。先達は皆さん此所は不淨場でありますといつて自分が先に小便をした。一行の者も皆小便をした。草の中には羊齒の葉が秀てゝ既に枯れた自然生の芍藥も交つて居る。此所からすぐに海へ出る。岸は皆削りたつた大きな巖である。斷面には縱横に切れ目があつて恰も十文字に繩を掛た大荷物が問屋の庭に積み揚げられたやうな形である。小徑は此斷崖の上をめぐりめぐつて北へ走る。一行はばら/\になつて先達に跟いて行く。左を仰いで見ると鬱蒼たる山の巓は頭に掩ひかぶさつた樣で其急峻な山の脚は恰かも物蔭から大手を開いて現はれた人が奔馬をばつたり喰ひ止めた樣に此小徑で切斷されて居る。小徑については到る所青芝と糸薄が茂つて居る。さうして糸薄の中には疎らに赤松が聳えて居る。時々鹿に逢[#「逢」は底本では「蓬」]ふことがある。山蔭に居る鹿は能く馴れては居らぬと見えて屹度逃げて行く。一つか二つか離れて居るのがひよつこり人を見ると特别に狼狽して草村を跳ねて逃げて行く。糸のやうな脚で跳ねるのがふわ/\とした綿の上でも跳ねるかと思ふ樣に見えて如何にも輕げである。驚いて逃げる時にピオウと細い聲で鳴き捨てるのである。五六匹も揃つて居るといふと躰と躰と押し合ふ樣にして或距離の所まで行くとけろつとして何時までもこちらを見送つて居る。無邪氣なものである。鹿の尻はモツコ褌をはめた樣だなシといふ聲が又後の方から聞えた。大箱の岬といふ札の立つた所へ出た。急な山の脚が海へ踏ん込む前に青芝の小山を拵へて其小山の頂近くから截斷して海へ捨てゝしまつた時に恐ろしい懸崖が出來た。此が大箱の岬である。四つに偃うて覗いて見るとさら/\と僅に碎くる白波が遙かの下の方である。其遙かな下の方に小さなものが動くやうに見える。それがだん/\昇つて近づく所を見ると一匹の小さな蝶であつた。暫く見て居たら心持が惡いやうになつた。大箱の岬を覗くものは馬鹿だといふのだと道者がいつた。青芝は地にひつゝいた樣で綺麗である。鹿が此芝をくひに來ることがあると見えて豆粒のやうな鹿の糞がころ/\と轉がつて居る。青芝の上に休んで居ると何時の間にか蝶は懸崖の面を舞ひあがつたものと見えて小さな黄色い羽をぴら/\と動かしながらめぐりめぐつて鹿の糞へとまつた。際涯もない外洋を望むと今日ばかり波がないのかと思ふ程平靜である。余は一朝暴風が此平靜な海を吹き亂して雲と相接して居る水平線の先の先から煽り立てゝ來る激浪が此の大箱の懸崖に吼えたけびてしぶきのとばしりが此の青芝へ氷雨の如く打ちかゝる時に牡鹿が角を振り立てゝ此岬に突つ立つ所を想像して見た。
九月九日
▲會津に入る
草葺ばかりのみじめな米澤の市中は戸が漸くあいた所である。老女がまだねくたれ髮を掻かぬ姿といつてやりたいやうだ。
小さな峠を一つ越えて關町といふ村で提げて來た小包を出した。郵便局といつても事務員がたつた一人しかなかつた。二三町來ると其事務員がお客さん/\といつて追ひ掛けて來た。局へ殘す筈の受領證を渡して仕舞つたから換へて呉れとお辭儀をするのであつた。あたりには
又峠になる。大臼のやうな炭俵を背負つた女達がおりて來る。二尺ばかりの短い棒を手に/\持つて居る。棒を俵の尻へ當てると立つた儘に休むことが出來るのである。牛追が杓子のやうなものを杖について居るので何をするのかと聞いたら牛の腹の蠅をぺた/\と叩いた。網木の村へおりる。出羽の地もこれ限りである。溪流を引いて麻を浸した淺い池が所々にある。モツペを穿いた女どもが晒した麻の皮を扱いて居る。家がみんな荷鞍ぐしだ。荷鞍ぐしといふのは棟が千木を建てたやうになつてるのである。
檜原峠へかゝる。峠のやうな峠である。山が深いだけに溪流が大きい。汀には竹林の如き虎杖がまだ花をもつて居る。道は又他の溪流に添うてのぼる。兩方から一丈餘りに延びた蓬が茂つて、撓むまでさいた
會津へ一歩くだれば一變して
忽ち一大湖水が現はれた。鬱然たる周圍の樹木を浸して居る。湖水に迫つて大きな茶店があつて二階には※[#「鼠+占」、343-1]でも住み相である。店には煤けた障子が締め切つてあつて障子の破れがふら/\と搖れる。此怪しげな茶店で峠で切つた草鞋を穿きかへる。旅客の穿き捨た草鞋が障子の蔭に堆く積んである。ぬるい茶をのみながら女房がしみ/″\といふ噺をきく。湖水は以前は萱原であつたが磐梯山が破裂した時に土灰が一方を塞いだ爲め水は落ち行く瀬を失つて此の如く湛へたのである。湖水の底には四ヶ村が埋沒して居る。二十戸の村で纔に七人のみが生きた所もある。最も悲慘であつたのは山の畑へ稼ぎに行つた老人である。磐梯山にあのやうな烟の立つ筈はない。山の凶事であるかも知れぬと二人の子を促して慌てゝ駈け出したのであつた。二人の男の子は血氣であつただけに危い命を拾つて逃げおほせたが老人は足のつゞかなかつた計に何處で泥土に埋まつたか遂に歸つて來ない。破裂のあとは七日まで山の鳴動が止まぬので檜原の村では家財を悉く馬に乘せて夜は殊に恐ろしさに堪へ兼ねて逃げようとしては流石に躊躇して夜を明すといふうちに山の騷ぎが止んだのである。知つた人が埋つて居ると思ふと船で渡るのも心持が惡いといつて女房はぽつさりとする。榾が燻ぶつて青い烟が天井をめぐる。
茶店のうしろには疎らな桑の立木があつて其間に菽が作つてある。狹い畑は二三歩ですぐに汀へおりる。湖水を隔てゝ遙かな草山の裾にぽつ/\と四角な白いものゝ見えるのは秋蕎麥の畑である。
道は湖畔に添うて稍高くなる。湖水を見渡すと汀をめぐつて白骨の如き枯木が水中に亂立して居る。大樹は枝幹其儘で小樹は手の骨や足の骨を立てならべた如くに短く朽ちて居る。枯木がなかつたら檜原湖は唯幽邃な湖水であつたに違ひない。凄いものは此水中の枯木である。小舟が一つ枯木に繋いである。
磐梯山も雨が晴れた。急峻な山腹を今一朶の雲が駈けのぼるやうにして頂から横に走つて山を離れると磐梯の全形が明かである。湖畔から見る磐梯山は殆んど破裂の趾のみが表はれる。頂から地盤の底まで唯一刀の下に截斷し去つたやうなのが破裂面である。其形状は例令ば錆びた大釜の破片を立てた如くである。大釜の形体が若し全くあつたならば磐梯山をも容れることが出來るだらうと思ふ程大きな破片である。其所々から烟草の烟の如き白烟が立つ。其所が現在の噴火口である。湖畔の崕には芝蓬が生えて其傍を過ぎる時はまだ濡れて居る四五本の芒の穗がゆるかに搖れて恐ろしい磐梯山の面を撫でるやうに見える。芒のもとには野菊のやうな花が眞白である。
(明治四十年三月八日發行、馬醉木第四卷第一號・明治四十年五月二十五日發行、馬醉木第四卷第二號所載)