完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隠約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか?所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはつきりはしてゐないのである。
人生
――石黒定一君に――
もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思はざるを得ない。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
我我は母の胎内にゐた時、人生に処する道を学んだであらうか?しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も
成程世人は云ふかも知れない。「学人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は
人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大会に似たものである。我我は人生と闘ひながら、人生と闘ふことを学ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと
又
人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。
又
人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。
或自警団員の言葉
さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も残つてゐる。
聴き給へ、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた為にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獣は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに
鳥はもう静かに寝入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも嘗めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであらう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ
小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得てゐる。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに楽しい希望を持ち得るであらうか?僕は未だに覚えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廃都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無数の蟻の群を憐んだことを!
しかしシヨオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
我我は互に憐まなければならぬ。シヨオペンハウエルの厭世観の我我に与へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?
夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不変頭の上に涼しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寝ころんだままチヨコレエトの棒でも
地上楽園
地上楽園の光景は
わたしの夢みてゐる地上楽園はさう云ふ自然の温室ではない。同時に又さう云ふ学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此処に住んでゐれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとひ悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも疑惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るのである。それから子供は男女を問はず、両親の意志や感情通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とになることが出来るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互に相手を褒め合ふことに無上の満足を感ずるのである。それから――ざつとかう云ふ処を思へば好い。
これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想の中にかう云ふ光景を夢みなかつた。夢みなかつたのは別に不思議ではない。かう云ふ光景は夢みるにさへ、余りに真実の幸福に溢れすぎてゐるからである。
附記わたしの
暴力
人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかし
「人間らしさ」
わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持つてゐない。いや、屡「人間らしさ」に軽蔑を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも
スウイフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戦慄を伝へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。
椎の葉
完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与へられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終止することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云ふことのみである。
「家にあれば
椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価してゐる。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であらう。少くとも生活同一の歎を繰り返すことに
追記不道徳とは過度の異名である。
仏陀
又
悉達多は
又
悉達多は六年の苦行の後、菩提樹下に
政治的天才
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののやうに思はれてゐた。が、これは正反対であらう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云ふのである。少くとも民衆の意志であるかのやうに信ぜしめるものを云ふのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴ふらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅かに一歩である」と云つた。この言葉は帝王の言葉と云ふよりも名優の言葉にふさはしさうである。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも
恋は死よりも強し
「恋は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとへばチブスの患者などのビスケツトを一つ食つた為に知れ切つた往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数へ挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか、――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであらう。(勿論死に対する情熱は例外である。)
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは肯定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、
醜聞
公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであらう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであらう?グルモンはこれに答へてゐる。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のやうに見せてくれるから。」
グルモンの答は
又
天才の一部は明らかに醜聞を起し得る才能である。
輿論
又
輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与へることばかりである。
敵意
敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。
ユウトピア
完全なるユウトピアの生れない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変へないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変へるとすれば、完全なるユウトピアと思つたものも忽ち又不完全に感ぜられてしまふ。
危険思想
危険思想とは常識を実行に移さうとする思想である。
悪
芸術的気質を持つた青年は、最後に人間の悪を発見する。
二宮尊徳
わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあつたのを覚えてゐる。貧家に人となつた尊徳は昼は農作の手伝ひをしたり、夜は
けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与へる代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与へる物語である。彼等は尊徳の教育に
わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じてゐる。成程彼等には尊徳のやうに下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違ひない。のみならず後年名誉を博し、大いに父母の名を顕はしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。丁度鎖に繋がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに。
奴隷
奴隷廃止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云ふことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を
又
暴君を暴君と呼ぶことは危険だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。
悲劇
悲劇とはみづから羞づる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は
強弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の
弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。
S・Mの智慧
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
弁証法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。
少女。――どこまで行つても清冽な浅瀬。
早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
追憶。――地平線の遠い風景画。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。
女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来てゐるものらしい。
年少時代。――年少時代の憂鬱は全宇宙に対する
我等如何に生くべき
社交
あらゆる社交はおのづから虚偽を必要とするものである。もし
瑣事
人生を幸福にする為には、日常の
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。