主权恢复 只限本土
「占領は終った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」と1952(昭和27)年4月28日の小欄は筆を起こしている。末尾は「占領よ、さようなら」の言葉で締めくくった。独立という、戦後の新しいステージへの静かな高揚が伝わってくる
“占领结束了!六年零八个月这长得不能再长的占领结束了!”1952(昭和27)年4月28日敝栏目刊登了这篇文章,最后以“占领啊,别了!”结束。独立,这一股走向战后新舞台的沉稳且昂扬的激情传遍了四方。
サンフランシスコ平和条約が発効したその日、日本は主権を回復した。同時に沖縄、奄美、小笠原は本土から切り離された。沖縄ではその後20年にわたって米軍統治が続くことになる。「屈辱の日」として記憶されてきたゆえんである
就在旧金山和平条约生效的这一天,日本恢复了主权。同时,冲绳、奄美及小笠原群岛与本土隔离。从这之后长达20年的时间里,冲绳一直处于美军的持续管制之下。这也正是这一天作为“屈辱之日”被记忆至今的原因所在。
平和条約をめぐって、国論を分かつ議論が起きたのはよく知られる。東西の両陣営と講和するか、米国など西側だけとの講和か、である。世論は沸騰した。しかし「日本」とは本土だけを指し、沖縄は忘れられていた
众所周知,围绕着和平条约曾发生过一场对国家前途针锋相对的争论。焦点是究竟是对东西两大阵营的媾和?还是只对美国等西方国家?一时间舆论为之沸腾,但是,所谓“日本”仅指本土而言,冲绳却被遗忘在了一边。
それから61年、「主権回復の日」の式典なるものを政府が初めて行うそうだ。沖縄から反発の声が上がったのは当然だろう。復帰後も基地は集中し、治外法権的な地位協定は残る。今なお「占領よ、さようなら」と言えずにいる人は少なくあるまい
从那之后又过了61年,听说政府决定举行首次“恢复主权日”纪念仪式。当然,这引发了来自冲绳的反对声浪。回归之后那里依然集中着军事基地,仍留有具有治外法权地位的协议。至今仍无法高呼“占领啊,别了!”的人绝不在少数。
「日本には長い占領期間があったことも知らない人が増えている」と安倍首相は言う。その通りだろうが、4・28は沖縄などを「質草」にしての主権回復だった。沖縄では日の丸も自由に掲げられなかった
安倍首相说,“在日本,不知道曾经有过一段很长的被占领时间的人数正在增加。”尽管事实正如其所说的那样,可4・28充其量也只不过是一个以冲绳为“抵押”的主权恢复。在冲绳,太阳旗仍不能自由升起。
安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、沖縄への想像力を持たずしてこの日は語れない。万歳三唱で終わるなら、やる意味もない。
伴随着条约的生效,安倍先生的外祖父岸信介这批人被解除了对他们的公职罢免。这些暂且不论,但是,如果对于冲绳不具有一个整体设想的话,便谈不上这个纪念日。倘若只是三呼万岁就算结束,那做这件事还有什么意义。
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