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日本語の人称代名詞は使用規則があいまいである。だから、目の前にいる人をどう呼ぶべきか、日本語話者は頭を悩まさなければならない。逆に、人から自分のことをどう呼ばれたらうれしいか?
日语人称代词的使用规则比较模糊。所以,如何去称呼眼前的人让日语使用者很是头疼。反之,人们喜欢别人怎么称呼自己呢?
家族の場合は別として、ふつうは「前田さん!」と姓で呼ばれることが多い。これは比較的ニュートラルな呼びかけだから、気分的にはうれしくも悲しくもない。心に余計な負担がかからないから楽である。「前田敦子さん!」とフルネームで呼びかけられるのは、いきなり自分の存在をわしづかみにされる感覚に襲われるので、役所や病院だけにしてほしい。同様に、突然「あなた!」と呼びかけられるのも心臓に悪いので、できればご遠慮願いたい。反対に、「先生!」と呼ばれるのはえらくなった気がしてうれしい。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳もあるが…。むかしはキャバレーではホステスさんから「社長!」と呼びかけられた。いまはキャバレーそのものがないから「社長」と呼ばれることもない。さびしい。
暂且不说家人之间的情况,一般日本人被人用姓氏称呼较多,比如“前田さん!(さん加在姓氏后面表尊敬)”。由于这种称呼相对中立,所以听着既不欣喜也不难过。它不会给心脏造成多余的负担,让人觉得轻松。如果被人叫全名,比如“前田敦子さん!”,听着仿佛像是被人狠狠抓住了一般,希望这种情况只出现在政府机关或者医院。同样的,若有人突然吼一声“你!”对心脏也不好,所以还请嘴下留情。反之,“先生!”这个称呼让人听了会变得有些飘飘然。有句川柳是这么说的:“我还没蠢到被人唤作先生而自得的地步。”过去在酒馆里,女招待曾称呼我为“社长!”。如今这种酒馆已经不在了,所以也没有人这样叫我了,挺寂寞的。
注:先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし(せんせいとよばれるほどのばかでなし)
先生と呼ばれて得意になっている人を皮肉る川柳。詠み人知らず。
1. 代議士や教師・医者などは、「先生、先生」と呼ばれて好い気になっているが、呼んでいる方は本当に尊敬している訳ではないんだよということ。2.大人の社会というところは、ちょっとしたことですぐに人を煽(おだ)てるものだから、乗せられて得意になるものではないということ。
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これまでずっと「呼ぶ」という動詞を使ってきた。わたしたちは毎日、人を呼んだり人から呼ばれたりする。当たり前のことのようでいて、人をどのように呼ぶかということはなかなか厄介な問題だ。呼ばれるその人について、呼ぶ私がどのようにとらえているかがわかってしまう。
到目前为止我一直用的是“呼ぶ(叫、唤、称为)”这个动词。我们每天都会叫别人、或者被别人叫。这动作看起来似乎再平常不过了,但如何去称呼别人其实是件很头疼的事。一句称呼便可以看出发出这个动作的本人是如何看待被称呼的那个对象的。
ここで、日本語の「よぶ」という動詞について考えてみたい。
在这里,我想探讨下日语中“よぶ”这个动词。
まず、声に出して注意を喚起するという意味がある。「必死で名前をよんだのだけれど、あの人は気がつきませんでした」。
つぎに、招待するという意味がある。「日曜日のパーティーには大島さんをよぼう」。
「招待する」と似ているけれど、「巻き込む」、「巻き起こす」という意味もある。「嵐をよぶ男」なんてセリフがある。
これに強制力が加わると、召喚するという意味になる。「警察は参考人をよんで事情を聞いた」。
さらに、命名するという意味もある。「これからは、この犬をムサシとよぶことにしよう」。
命名に似ているけれど、定義するという意味もある。「この感情を恋愛とよんでいいのだろうか?」。
つぎに、招待するという意味がある。「日曜日のパーティーには大島さんをよぼう」。
「招待する」と似ているけれど、「巻き込む」、「巻き起こす」という意味もある。「嵐をよぶ男」なんてセリフがある。
これに強制力が加わると、召喚するという意味になる。「警察は参考人をよんで事情を聞いた」。
さらに、命名するという意味もある。「これからは、この犬をムサシとよぶことにしよう」。
命名に似ているけれど、定義するという意味もある。「この感情を恋愛とよんでいいのだろうか?」。
首先,它有出声引人注意之意。“我拼命地喊他的名字,他却丝毫没有察觉。”
接着,它还有招待之意。“周日的派对叫上大岛吧。”
意思接近“招待”,但也包含“卷入”、“引起”之意。有这么一种说法叫做“呼风唤雨的男人”。
若是在此基础上施加强制力,意思就变成了“传唤”。“警察传唤知情人了解了下情况。”
另外,它还有命名之意。“以后我们就叫这只狗狗musasi吧。”
还有和命名比较接近的“定义”之意。“能把这种感情称作是爱情么?”
接着,它还有招待之意。“周日的派对叫上大岛吧。”
意思接近“招待”,但也包含“卷入”、“引起”之意。有这么一种说法叫做“呼风唤雨的男人”。
若是在此基础上施加强制力,意思就变成了“传唤”。“警察传唤知情人了解了下情况。”
另外,它还有命名之意。“以后我们就叫这只狗狗musasi吧。”
还有和命名比较接近的“定义”之意。“能把这种感情称作是爱情么?”
こうして並べてみると、「よぶ」という動詞の原義は「人を発話者の身近に引き寄せる」ということではないだろうか?「招待」であれ「召喚」であれ「巻き込み」であれ、人を自分のなわばりの中に引きずりこむという点では結果的に同じである。そして、引きずりこむということはその人を支配することにつながっていく。そう、「よぶ」という動詞には、意図するにせよしないにせよかすかな権力意思が内在している。さらに「命名する」や「定義する」になると、ある決定的な力の作用を確実に感じ取ることができる。たぶんこのことあるがゆえに、「人を呼ぶ」という行為にはデリケートな問題がつきまとうのだ。
这样列出来就会发现,“よぶ”这个动词的原意是“把人拉到说话者的旁边”吧?不管是“招待”还是“传唤”亦或是“卷入”之意,从某方面来说结果都是一样的,即把人带入自己的势力范围。而带入这个动作又会和支配此人发生关联。没错,不管是有意还是无意,“よぶ”这个词都带有那么一点权利思想。如果取“命名”、“定义”之意的话,我们便可以切实地感受到这种决定性的力量。可能正是因为如此,“叫人”这行为才会显得有些敏感。
そうである以上、「呼ぶ」-「呼ばれる」の関係は非対称である。上の者が下の者を呼ぶことは比較的たやすいが、その逆は神経を使わざるを得ない。少なくとも日本語の世界では…。
「甲野君、これちょっとコピーして来て」
「課長、コピーが出来上がりました」
「甲野君、これちょっとコピーして来て」
「課長、コピーが出来上がりました」
既然如此,那么“叫”与“被叫”之间的关系就是非对称的,上面的人叫起下面的人来相对比较容易,但反之就需要动点脑筋了。至少在日语这个世界里……
“甲野君,你把这个复印下。”
“课长,复印好了。”
“甲野君,你把这个复印下。”
“课长,复印好了。”
かりに課長の名前が宗近さんだったとしても、部下の甲野君は「宗近さん、コピー出来ました」とは言えないのだ。まして、「宗近糸子さん!」なんてフルネームで呼びかけるとただではすまない。時々「上司に対しても名前で呼ぼう!」なんて運動を始める会社があるけれど、長続きしない。「呼ぶ」-「呼ばれる」の非対称的な関係は変わらないからだ。
即便课长的名字是宗近,作为下属的甲野也不会说“宗近,复印好了”。更别说像“宗近糸子先生!”这样叫了全名,那事情可就没那么简单了。有时候也会有一些公司掀起“对上司也叫名字吧!”这样的改革,但都很短命。因为“叫”与“被叫”之间的非对称关系没有改变。
下々のものが、貴人に対して呼びかけるのは非礼に当たる。という観念は日本だけでなく多くの言語圏で共通している。どうしても呼びかける必要がある場合は間接的な婉曲表現を用いる。だから、戦前は「かしこきあたり」なんて言いかたもあった。
下面的人直呼达官显贵的名字是很无礼的一种表现。这种观念存在于日本,也存在于其他诸多语言圈中。在不得已的情况下必须要称呼他们的话,人们会选择较为间接的、委婉的表达。因此在战前,甚至还有“かしこきあたり(对天皇的一种委婉的称呼,原指皇宫等让人诚惶诚恐的地方,具体见释义)”这样的说法。
注:かしこきあたり【畏き辺り】恐れ多い場所。天皇・上皇・将軍が住んでいる地域です。時代を経るに従って、「住んでいる地域=特定の個人・団体をさす隠語」となります。例えば、東京・乃木神社では「九月十三日、畏き辺りよりの祭粢料を賜り・・・」と報道しています。