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日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。
如果仔细观察下日语,你就会惊讶于日本竟是个如此重视“对话场面”的民族。
「対話の場」を重視する典型的な例が「行って来ます」と送り出す「行ってらっしゃい」だ。家を、会社を、国を出る時に誰もが口にする表現で、ほとんどの日本人が毎日使っているだろう。だが、これを直訳するととてもおかしなことになる。何故か。英仏語にはそう言おうとする発想がないからだ。「行って来ます」には動詞が二つあるから、本来の意味は「行きます(が、必ず帰って)来ます」であったろう。つまり、対話の場に必ず戻ることを約束しているのである。
其典型例子就是“行って来ます(我走了、我去去就回来)”及送人出门时说的“行ってらっしゃい(走好、慢走)”。从家里、公司出门、还有出国时谁都会说的这两句日语,几乎所有的日本人每天都在使用吧。只是,如果将它们直译,总觉得会很怪。因为在英法语中没有这样的思维方式。“行って来ます”这句话中有两个动词,所以其本意应该是“我走了(但一定)会回来”吧。也就是说,说话人作出约定一定会回到该说话场合。
送り出す方も同じ発想で、「行ってらっしゃい」は「行って+いらっしゃい」の「い」が落ちたもの。「いらっしゃる」は尊敬語で「いる・来る・行く」の3つ の意味があるが、ここは明らかに「来る」の尊敬語だ。「行ってきます」が敬語の「行って参ります」や打ちとけた「行って来るね」になったところで、動詞が重なる文構造も、その本来の意味も全く変わらない。同様に、ぶっきら棒に「おぅ、行って来い」などと応じたところで、やはり「行ってらっしゃい」と同じ意味の答えなのである。英語では「Im going now」や「Ill be back soon」などは言うが、この2つを一緒にし、しかも日常表現として毎日使うということはしない。
送人的一方也是出于同一个想法,“行ってらっしゃい”是“行って+いらっしゃい(去+来)”省略了“い”的结果。“いらっしゃる”为敬语,有“在•来•去”三种意思,这里很明显是“来”的敬语。“行ってきます”在变成敬语说法“行って参ります”及较随意的“行って来るね”时,不管是动词叠加的句子结构还是其本意都完全没有发生改变。同样的,即便是粗鲁地对其回应说“おぅ、行って来い(哦,去吧)”,意思也还是和“行ってらっしゃい”没什么两样。虽然英语中有 “Im going now(我走了)”、“Ill be back soon(我马上回来)”等说法,但人们却不会将这两者放在一起,甚至当作日常表达每天使用。
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「行ってきます」の応用編とでも思えるのが「焼き芋を買って来たよ」「カナダへ行って来ました」などで、これらも英語であれば後半の「and I came back」は全く蛇足である。やはり日本語話者の発想に「そうやってここに戻って来ましたよ」という「対話の場」を大切にする、ひいては相手への気配りが伺える。
“焼き芋を買って来たよ(我买了烤白薯回来哦)”、“カナダへ行って来ました(我去了下加拿大)”等说法可以看作是对“行ってきます”的实际应用,这些话如果换成了英语,后半部分的“and I came back(然后我回来了)”就是完全多余的。“我是这样回来的哦”这一言下之意确实让我们从日语使用者的思维中看出了他们对“对话场面”的重视,甚至还有对对方的关怀。
出かけた後は自宅や会社に帰ってくる。その時に日本人はまたしても外国人に不可解な表現を使うのである。それが「ただいま」だ。「ただいま」とは言うまでもなく「只今」の意味で、直訳すれば「Right now」だが、こう言って帰って来る英語話者は見たことがない。何故日本人はこんな言い方をするのか。またしても学習者が頭を傾げる場面だ。
人们在出门后会回到自己家或者公司里。此时日本人又会用上外国人无法理解的表达,即“ただいま(我回来了)”。不用说也知道“ただいま”是“只今(现在、刚刚)”之意,直译成英语就是“Right now”,但没人会在进门时说这句英语。为什么日本人要这么说呢?这又是一个让学习者疑惑的场景。
出迎える方がまた不思議な発話をする。「お帰りなさい」だが、その本来の意味を英訳するとナンセンス極まりない文となる。これはどう見ても「お食べなさい、お話しなさい」などと同じ構造の命令文ではないか。もう目の前に帰ってきた聞き手がいるのに「Please come/go back」などと頓珍漢なことを言うのだろう。
出来迎接的人说的话也让人觉得不可思议。他们会说“お帰りなさい(你回来了)”,将其原意进行英译后就成了一句毫无意义的话。“お帰りなさい”这话怎么看都和“お食べなさい、お話しなさい(吃、说)”等一样是命令句嘛。欧美人会站在已经回来的人面前说“Please come/go back(请回来/去)”等这样自相矛盾的话吗?
この受け答えは、「お帰りなさい」「ただいま」と発話の順序を逆にすると真意が分かりやすい。出迎えて「お帰りなさい」と言うのは、字句通りの「はやく帰ってきて」という祈りを、姿が見える直前、まさに文字通りの「ただいま」まで、唱えていた名残ではないだろうか。それに応えて帰還者は不在の長さを詫びる。長いこと対話の場を離れてすまなかった、さぁ今、帰ったよ、という気持ちで日本人は「ただいま」と言うのだ。
对于这个对话,我们像这样将其说话顺序反一下就比较容易理解其本意了——“お帰りなさい”、“ただいま”。人们在出去迎接时说“お帰りなさい”,正如字面意思所示,是一直在期望对方“快点回来”,直到看见对方的身影,正如文字写的那样、直到“刚刚”为止,都还在念着这句话吧。而回来的人则对自己长时间的离开表示抱歉,以此来回应对方的心情。离开对话场合这么久真是抱歉,现在我回来啦——日本人正是抱着这种心情说出了这句“ただいま”。
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日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいる。聞き手は2人以上のこともあるが多くは1人だ。ここで大切なのは、この「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。この点が日本文化の基本であるように思えてならない。日本語における<我>は、決して「対話の場」から我が身を引き離して、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線をもたない。<我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。
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