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上篇回顾:曖昧最高!「楽しむための会話」
因为成长环境或者个人价值观的不同,我们每个人对语言的理解都不一样。有时明明用对了词句,想法却还是没法清楚地传递给对方。语言最万能的一点就是其暧昧性,说到底是为了开心而聊天,有时糊涂着乐着便好,不必太过较真。继续阅读>>
下篇:共有しよう!「理解するための会話」
私はクライアントとの打ち合わせでも、まずは「楽しむための会話」をします。というのも、まずは親近感を抱いてもらう、話していて楽しいと思ってもらう、ということが大事だと考えているからです。楽しく会話をすることによって、情報を聞き易くなり、さらに質問をし易くなります。最初から相手の話すリズムを崩してしまうと、「話をあまり聞いてくれない。」と思われてしまいます。
我和客户洽谈时,也会先选择享受对话。这是因为,先让客户产生亲近感,让他们觉得聊得很开心这点十分重要。聊舒坦了,就容易获取信息,更容易提问。如果一上来就破坏对方的说话节奏,难免会让人觉得“这人没怎么在听”。
それに、もしかしたらこの後自分が疑問に思っていることの説明があるかもしれません。それなのに、先に質問をしてしまうと、好印象をもってもらうのは難しいでしょう。なので、質問をし易くするためにも、答えてもらい易くするためにも、まずは相手の話のリズムを崩さずに会話を楽しむことが大事です。
再者,之后可能会有针对你的疑问进行解说的时候,而你却抢先发问了,如此一来便很难留下好印象了吧。因此,为了更容易发问,也为了更容易得到对方的回应,先不要去破坏说话者的节奏,而是享受对话,这很重要。
とりあえず、なんとなくこいつは話が解る!と思ってもらえたら万々歳です。
所以说,如果能先让对方觉得“这家伙似乎能理解”就是万万幸了。
理解するための会話
以理解为目的的对话
クライアントとの打ち合わせはもちろんですが、プライベートでも、「楽しむための会話」だけではダメな場合があります。想いをしっかりと伝えたい時、想いをしっかりと共有したい時、そんな時には「理解するための会話」をする必要があります。
和客户洽谈就不用说了,即便是私人场合,有时候仅为了开心而聊天也是不够的。想要清楚地向对方传递自己的感受、想要好好谈并达成共识,像这些时候,就有必要进行“以理解为目的的对话”。
「楽しむための会話」をしている時に、私たちはある状態に陥っていると言えます。それは「曖昧な共有」という落とし穴に落ちているということです。 上記でも書いたように、「言葉」に対する価値は、人によって違いがあります。「楽しむための会話」では「言葉」の価値を曖昧に共有することで、会話のリズムやスピード感を保ち、楽しさのみを求めました。しかし、この状態では、確実にお互いの理解にずれが生じています。
可以说,为了开心而聊天时,我们都陷入了某种状态,即所谓的“暧昧的共识”这一陷阱。正如之前写过,每个人对于“语言”价值的理解是不一样的。如果只是为了开心而聊天,那对其达成暧昧的共识能保持谈话的节奏感和速度感,只图一乐。不过在这种状态下,双方在理解上确实会产生出入。
「理解するための会話」では、このずれを合わせ、落とし穴からの脱出を試みます。「楽しむための会話」が上手にできていれば、質問しても「何も解っていない」と思われるのではなく、「しっかり理解しようとしてくれている」という意識の変換が起きます。その状態になれば、質問するという行動が、質問攻めではなく、会話になると私は思います。
在“以理解为目的的对话”中,我们要试着磨合并爬出这个陷阱。如果能聊得开心聊得巧妙,即便发起提问也不会给人以“什么都没听懂”的感觉,而是让人在意识上发生转变,使其觉得“这人有好好尝试着在理解”。我觉得如果能达到这种状态,提问便不会再如连珠炮一般,而是变成谈话。
聞くことはたくさん。でも、やることは1つだけ
听的东西有很多,但要做的事只有一件
「理解するための会話」で行うことは、たった1つです。それは、相手が言っている「言葉」の価値をしっかりと共有する。ということです。相手の言っている「かっこいい」とは、一体どういうことだろうか?どういうものを「おもしろい」と感じるのだろうか?「良いね」という言葉の前に「まぁまぁ」や「かなり」という形容詞はついていないだろうか?といったような確認が必要です。
如果是为了相互理解而对话,那么要做的事情只有一件,即在“语言”价值观方面和对方达成共识。对方所说的“帅”到底是怎么回事?他会觉得怎样的东西“有趣”?在评价“不错”之前,有没有加上“还算”、“相当”之类的形容词呢?像这样的确认很有必要。
流すも正解、聴くも正解
听过就忘、或洗耳恭听,都是正解
「楽しむための会話」でとる行動を、普段している人は多いと思います。よくわからない言葉があっても流す。理解に苦しむ発言があっても流す。究極は、何を言っているか全く解らなくても「なるほどね」と言う。相手の言っていることを理解しているとは、到底言えないと思いますが、私は、楽しいんだったらいいと思います。
我想很多人平时都是为了开心而聊天,即便有听不明白的话,或是难以理解的发言,听听也就过去了。最后哪怕百思不得其解,也会附和说“原来如此啊”。虽无法断言理解了对方所说的,但我觉得只要开心就好。
その反面「理解するための会話」を普段からしている人は少ないと思います。楽しく会話をしたい時に、「理解するための会話」をすると、「鬱陶しい」と思われる危険もありますし、常にするべき行動ではないでしょう。
反之,很少人在平时就一直以理解为目的进行对话。别人想要聊得开心,你却总是刨根问底,难免会让人觉得郁闷,这不应该成为一种常态吧。
まとめ
总结
「当たり前のことばかり言いやがって!」と思われたかもしれません。私も、当たり前のことだと思います。楽しみたいときには、ある程度曖昧に。理解したいときには、「言葉」の価値の共有を。わかりきっていることですが、とても忘れ易いことだと思います。
也许你会觉得我说的尽是些理所当然的事,其实我也是这么觉得的。想享受聊天就适当糊涂。想理解对话就在“语言”价值方面达成共识。这些道理谁都懂,却又很容易忽略。
会話の内容は面白いんだけど、何か盛り上がらないなぁ。と感じた時は、もっと曖昧になってみてください。会話ははずむのに、なにか認識にずれがあるなぁ。 と感じたときは、「曖昧な共有」の落とし穴に落ちている可能性が高いです。その時には、「言葉」の意味は同じでも、「言葉」の価値は人それぞれ。ということを思い出してみてください。
虽然内容很有趣,但总觉得聊得不温不火,当你有这种感觉时,聊时不妨再糊涂些。虽然聊得起劲,但总觉得双方想法有出入,如果你有这种感觉,那很可能是掉进了“暧昧的共识”这个陷阱。此时不妨想想这句话——“语言”这东西就算意思相同,其包含的价值也是因人而异的。
可以成为“聊天话题”的日本文化小事